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洲崎神社
【すのさきじんじゃ】


館山市洲崎にある神社。祭神は天比理乃咩命。天太玉命・天富命を配祀する。社伝によれば,神武天皇の時,安房忌部氏の祖天富命が,祖神である天太玉命とその后神天比理乃咩命を祀ったのに始まるという。天太玉命は安房神社(館山市大神宮)に,后神は当社に祀られた。ただし,魚尾山上にある洲宮神社(館山市洲宮)は当社の奥宮で二宮と呼ばれ,御手洗山上にある当社はその拝所で一宮と呼ばれている。「続日本後紀」承和9年10月2日条に,安房神を正五位下に,姫神である「无位第一后神天比理刀咩神」を従五位下に列するとある。その後,仁寿2年8月22日には両神ともに従三位となり(文徳実録),貞観元年正月27日には安房神と天比々理刀咩命神が正三位となっている(三代実録)。「延喜式」神名帳安房郡条には「后神天比理乃咩命神社〈大,元名洲神〉」と見え,「洲神」には「スサキ」との訓がある。神名は各書によって異同があるが,現在は「延喜式」の天比理乃咩命をとっている。下立松原神社蔵の「安房忌部家系」によれば(安房国神社志料),天比理刀咩神が天富命の娘飯長姫に憑き白波の来寄する小浜に宮地を設けて吾を祀れと託宣し,飯長姫に奉仕させたという。「吾妻鏡」治承4年9月5日,源頼朝は当社に参詣して功田を寄せる旨の願書を奉り,同12日に寄進状を送ったとある。「義経記」に,頼朝が伊豆から逃れて「安房国洲の崎といふところ」に上陸し通夜したと見える「滝口の大明神」が現在の白浜町滝口にある下立松原神社と思われ,当社のことではないと考えられる。あるいは後世に当社と滝口明神とを混同したものかも知れない。治承5年2月10日には,洲崎の神領に安房の在庁がさまたげをなすとの当社神官の訴えに対し,頼朝は在庁の行為を停止すべしとの下知状を下している。治承6年8月11日には,北条政子の安産祈願のため,当社にも祈祷を命じるなど,頼朝の崇敬が知られる(吾妻鏡)。しかしその後の沿革はほとんど未詳で,「永享記」に,文明10年太田道灌は当社の神を江戸城近くに勧請し,これが神田明神(東京都千代田区)であったとあるくらいである。元和2年9月15日付中村吉繁書状に,徳川氏は当社に洲崎村内の5石を社領寄進したとあり,寛永13年11月9日には同じ旨の徳川家光朱印状が出されている(洲崎神社文書/安房国神社志料)。近世の別当寺は真言宗養老寺であった(房総志料2)。明治6年県社に列格。8月の大祭に行われる洲崎踊りは,女児による鹿島踊りと「みろく踊り」で県無形民俗文化財。境内を含めた御手洗山中腹に発達するスダジイの林は,洲崎神社自然林として県天然記念物。このほか,江戸中期頃の建造とされる本殿などが市文化財。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7055238