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橘樹神社
【たちばなじんじゃ】


茂原市本納にある神社。祭神は弟橘比売命・日本武尊・忍山宿禰。橘木社・吾妻大明神と呼ばれ,橘様が俗称。日本武尊が当地に至り,身代わりとして海に投じた弟橘媛の墳墓を造り,櫛を納め,橘の木を2株植えたのが当社の創祀と伝える。元慶元年5月17日に従五位上勲五等から正五位下へ,同8年7月15日には正五位上へ昇叙されている(三代実録)。また「延喜式」神名帳長柄郡条に「橘神社」と見える。古代末期には当社は安楽寿院領となっており,永暦元年12月日付尼蓮西解文案によれば藤原通憲が保延6年に寄進したものという(醍醐寺文書2/大日古)。また康治2年8月19日付太政官牒案には安楽寿院の末社の1つとして四至が明示されている(平遺2519)。その四至は,東は滝頭,南は長尾堺小牧堤,西は杉崎童寺,北は山辺都堺であった。保延6年に四至に牓示を打つにあたっては,西南の赤鳥居は国の在庁との相論,東南は藻原荘との相論のために打たなかったと見える(永暦元年12月日付尼蓮西解文案,醍醐寺文書2/大日古)。また永暦元年2月13日には,二位局を以って当社の預所とすべきことが美福門院(藤原得子)庁から下されている(醍醐寺文書2/大日古)。当社は年貢として綿132両・白布22端・雑布22端・油1斛5斗を納めていたことが知られる(建久5年10月20日付蓮西年貢支配状,橘神社文書/県史料諸家)。なお当社領は三方に分かれていたが,そのうちの1つ十三郷方の領家職は尼蓮西から頼遍へ,頼遍から醍醐座主良海へ相伝されている(元久3年4月11日付頼遍処分状,橘神社文書/同前)。当社は上総国二之宮として神田75町・神職1戸・社家12戸を有していたという(上総国誌/房総叢書)。天正19年11月に徳川家康が朱印地6石を寄進したと伝える(南総郡郷考/房総叢書)。また応仁と天正年間に兵乱のため社殿が焼失したが,本殿は寛政12年11月に再建されている(現存)。なおその際に土瓶・壺などが墳墓の南腹から出土したが,幕府は神主の処置を責め蟄居を命じている(上総国町村誌)。明治6年県社。当時は本納・法目2村の鎮守であった。祭日には鶏献饌真名箸料理神事・羯鼓などが行われる。当社祭神は鷹を忌むと伝え,鷹匠なども当地を通らず,もし誤って通過すれば鷹は理由もなく死んでしまうなどという6種の禁忌が残る。また社前の吾妻池は弟橘媛の墳墓を造る際に掘り取った跡と伝える。境内の橘の実の食べると癡病が治るとの信仰もある。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7055546