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玉前神社
【たまさきじんじゃ】


一宮町一宮にある神社。延喜式内名神大社。上総国一宮。祭神は玉前神(玉依姫命)。玉崎・玉綺とも書いた。創祀は明らかでなく,景行天皇東巡の際に創祀されたと伝えるのみである。また祭神の玉前神についても異説が多く,「大日本国一宮記」では高皇産霊尊の弟の生産霊尊の御子,前玉命とし(群書2),一説では高皇産霊尊の孫の前玉命ともする。さらに大己貴命・天明玉命・玉依姫命などともするが,未詳。社伝では玉前神を玉依姫命とする。当社は貞観10年7月27日に従五位上勲五等から従四位下へ,元慶元年5月17日に従四位上から正四位上(下か)へ,同8年7月15日に正四位下から正四位上へそれぞれ昇叙されている(三代実録)。「延喜式」神名帳埴生郡条には「玉前神社〈名神大〉」と見える。延久2年8月3日には当社の神が,懐妊して3年になるがいま明王の国を治める時にのぞんで若宮を誕生すると託宣した。そこで海浜を見ると明珠1顆があり,それが若宮の正体であるという説話が残されている(古今著聞集上総一宮託宣事)。とすると当社の神は女神かもしれない。また「本朝世紀」康治2年8月11日条によれば,当社務を執行していた源為季が当社の神罰により頓死したとある。永万元年6月日付の神祇官諸社年貢注文では「上総国,玉綺社」とあり(平遺3358),当社は神祇官に年貢を納めている。武将の崇敬が篤く源頼朝は寿永元年8月11日の北条政子安産祈祷の際に,当社に小権介良常(平良常)を使として奉幣している(吾妻鏡)。また当社は平安末期から鎌倉初期にかけて上総介広常の崇敬を受けている。広常は寿永2年に謀反の疑いで殺害されるが,のちに当社の神主らによって,広常が治承6年7月に源頼朝の心願成就,東国泰平を願い,これが成就されれば3か年の間神田20町の寄進,社殿の造営,1万回の流鏑馬を行うことを誓約し,甲1領を奉納していたことが明らかにされ,頼朝は悔い,広常の弟2人を許している(同前元暦元年正月8日,17日条)。さらに寛喜元年12月10日には雷の祈祷のために当社に奉幣使として足利五郎長氏が立てられ,神馬御釼などが奉納されるとともに神前で大般若経の読経が行われている(吾妻鏡)。その後永禄年間には北条・里見両氏の対立により旧記・宝物を失ったという。そこで当社は難を避け,海上郡の領主海上刑部左衛門常忠を頼り,飯岡の地(現海上郡飯岡町玉崎神社の社地)に神体を移したと伝える。当社と海上氏,あるいは飯岡町の玉崎神社との間には何らかの縁故関係があったのかもしれない。当社は天正5年に現在地に遷座したが,同10年6月に里見義頼が宮地を寄進したという。また同19年11月徳川家康も朱印地15石を寄進している(寛文朱印留)。天保年間になると,かつて上総介広常が寄進した鎧が失われていることを嘆き,一宮藩主加納久徴が甲冑1領を寄進したと伝える。当社の社家は田中・風袋・宮本・小塚・飯塚の諸家であったといい,また神宮寺は観明寺であった。明治4年6月に国幣中社に列した。当時は近隣12か村の鎮守であった。本殿(貞享4年建)・神楽殿(宝永7年建)のほか,和鏡の梅樹双雀鏡が国重文,春秋の大祭に奉納される上総神楽は県無形民俗文化財。例祭日(9月13日)の上総はだか祭には2基の神輿が海岸に渡御し,付近の12社の神輿と会合する古式がある。12社祭として有名(町文化財)。そのほか6点の町文化財を所蔵する。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7055587