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千葉神社
【ちばじんじゃ】


千葉市院内町にある神社。祭神は天之御中主神・経津主命・日本武尊。かつては北斗山金剛授寺妙見堂,あるいは千葉妙見・妙見宮などと称した。現在でも一般的には妙見様と呼ばれる。千葉氏の祖である平良文は天慶の乱の染谷川合戦で苦戦したが,上野国群馬郡花園村の七星山息災寺の妙見尊の示現により戦いに勝利を得たことを契機として,一族の守護神として妙見を崇敬し,千葉氏とともに下総の各地に奉祀されたが,大治元年千葉常重が池田郷猪鼻に居城(猪鼻城)を構えた時,香取神社(千葉市院内町)の境内地であった当地に妙見尊を奉祀したのが当社の前身の妙見宮であるという。そしてこの妙見宮の別当となったのが北斗山尊光院金剛授寺である(千葉市史)。中世になって,この妙見宮は各地の妙見の中心的な役割を果たした。そして妙見七体のうちの浄瑠璃世界主破軍星薬師を祀っていたために軍神として代々千葉氏の崇敬を受け,特に元服の儀式はこの妙見宮をはじめとする各地の妙見社で行われるようになった(千学集抄/房総叢書)。古来たびたび火災にあったと伝え,治承4年・応仁元年などの焼失が知られる(妙見実録千集記/房総叢書)。康正元年に千葉胤直は家臣原胤房の叛乱により,妙見尊を放置したまま香取郡多古の千田荘に逃げたため,胤直の甥で金剛授寺の座主であった覚実法印が寺の客殿に妙見尊を祀り,金剛授寺はそれ以来妙見寺と称するようになったという。ただ,この点については異説もある。天正19年11月に徳川家康から朱印地200石の寄進があった(寛文朱印留)。以後千葉の産土神として崇敬されたといい,元禄5年・安政6年には千葉郷氏子一同の助力によって妙見寺が再建されている(安政6年4月日付千葉妙見堂再営寄附御姓名帳/千葉市史史料編2)。神仏分離に際して妙見寺を廃し,現社名に改称するとともに現在の祭神を定めた。明治7年県社。同37年の火災で社殿のほか宝物古文書の大部分を焼失。昭和20年の空襲で再び焼失したが,同29年8月に再建された。当社の例祭は8月16日から22日までの「だらだら祭」で,千葉妙見の「裸祭り」として近郊に知られている。かつては千葉舟と結城舟の2隻の御舟による華麗な祭礼であったが,現在では神輿の渡御が中心になり,往時の面影を見出すことはほとんどむずかしくなった。境内は市史跡。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7055640