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東大社
【とうだいしゃ】


東庄(とうのしよう)町宮本にある神社。祭神は玉依姫命。王子大明神(旭市史3)・玉子社(大日料11‐11)・総社明神社(寛文朱印留)・東王子(地名辞書)など多くの呼称があり,香取社の御子であるともいう(下総式社考)。現在では「おうじん様」が通称。また東大神社とも呼ばれる(香取郡誌)。景行天皇53年10月に天皇は上総国に着いたが(日本書紀),社伝によると,その後当地に至り,春臣命に命じて1社を造営し東海の鎮護としたのが当社の創祀という。康和4年になって海上郡高見(現銚子地方)の海上に荒波がおこり天地震動が数日止まなかったために,堀河天皇は当社に命じ臨時祭を行わせ,神輿が高見の浜に渡御したところ,荒波は静まり,海中から霊玉を得たために,それを当社の神璽とし,新たに社殿を造営したという。天皇は総社玉子大明神の社号を当社に賜い,それまでの総社東宮・八尾神社の社号を改めたという。のちに当社は東国の武将の崇敬を受けるようになり,養和元年に千葉氏が神田45町を寄進し,一族の祈願所としている。また千葉氏一族の東氏も青馬郷の一部を当社に寄進し,東荘三十三郷の鎮守神とした。さらに源頼朝は元暦元年に御厨1所を寄進したという(社伝)。以後特に東氏の篤い崇敬を受けるが,応永23年4月には東左馬助胤家が社殿を造営し,海上筑後守憲胤らが大行事となって宝函を造り神体を安置している(県史料金石2)。享徳3年後花園天皇から総社玉子大明神の勅額を賜り,康正元年11月に東常縁が馬加陸奥守を討つに当たっては願文に和歌を添えて奉納したという(社伝)。永禄3年に東勝秀が社領を寄進(同前)。同4年には社殿の造営が行われ,その費用の一部を東荘三十三郷の氏子村々が負担している(永禄4年正月7日付千葉氏黒印状写/旭市史3)。天正12年になると千葉法阿弥・原若狭守親などから大般若経が奉納されている(飯田直枝氏所蔵文書/大日料11‐11)。同19年11月徳川家康は朱印地10石を寄進したが(寛文朱印留),それには「総社明神社」と見える。元和2年には香取郡大戸荘岩崎の住人則定・正定兄弟から蛬丸(きりぎりすまる)という名の薙刀が奉納された(県史料金石2)。寛永18年に社殿が修造されたが,享和元年2月23日夜に朱印状や古文書が焼失している(惣社玉子大明神領野帳写奥書/県史料諸家)。文政9年に本殿が,翌10年に拝殿が再建された(いずれも現存)。嘉永2年7月28日に前内大臣花山院家厚が「東庄大社」の扁額を奉納(香取郡誌)。明治6年郷社,大正8年県社。20年ごとに外川浦高見の磯(銚子市)への神幸祭がある。9月初丑日には新飯神事が,10月20日には流鏑馬祭も行われる。木製玉体宝函・紙本大般若経奥書集を所蔵するほか,東氏以来の伝統で和歌奉納の碑が多く現存する。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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