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利根川
【とねがわ】


日本最大の河川。群馬・新潟県境の丹後山(1,809m)を発し,関東平野を対角線状に横切って流れ,房総半島の東端,銚子市で太平洋に注ぐ。流域面積1万5,844.8km(^2),幹川延長298.2km。流域は群馬・栃木・埼玉・千葉・茨城・東京の1都5県にわたり,山地部40%,平地部60%となっている。主な支川に,吾妻川・烏川・神流川・渡良瀬川・鬼怒川・小貝川・常陸利根川,および派川に江戸川があり,支川数は285を数え,これら支派川を含めると,流長は4,622.2kmとなり,水田21万haの灌漑に供している。また,下流部分には,霞ケ浦・北浦・印旛沼・手賀沼などの湖沼がある。本流は,普通,水源地から群馬県水上までが奥利根,水上から埼玉県栗橋までが上利根,栗橋から千葉県布佐までが中利根,布佐から銚子の河口部までが下利根と呼ばれている(下総国旧事考・利根川図志)。利根の地名の由来については,「利根治水論考」に,「利根川は万葉集に刀禰に作れり。名義不詳,上野名跡考に,此郡は尖峰多ければ,利キミネの義なるべしとあるは如何。近人或はアイヌ語を援きトンナイとは夷語巨渓の意にて,猶大河といふごとしと談す。小川氏国邑志稿には,姓氏録地祇,等禰直,椎根津彦命之後也とあるに因り,姓氏号に出づるかといはれたり。江戸名所図会云,刀禰とは物の冠たるを称する詞なれば,大河をば刀禰ともいへるなるべし」とあるが,吉田東伍自身,「されど,此刀禰てふ語が,地名になれる因由は想ひ得ず」としており,はっきりしない。刀根・刀嶺・刀寧・東寧とも記し(香取郡誌),坂東太郎とも称する。利根川は,現在は銚子市で太平洋に注ぐが,かつては中利根川と下利根川は存在せず,利根川の下流部分は,下総と武蔵の国境を画するように南流し,荒川・入間川を合して隅田川となり,東京湾に注いでいた。現在の中川にあたり,上流部分を古利根川と呼ぶのは,このためである。また,渡良瀬川は,上野・下野の国境を画するように南流し,下流部分は太日川といわれて,下総国葛飾郡を東西に二分し(仙覚:万葉集註釈),同じく東京湾に注いでいた。近世にはいってからは,その流路を江戸川と呼ぶ。一方,下総・常陸の国境一帯は,霞ケ浦・北浦・手賀浦(沼)・印旛浦(沼)・長沼などを含む一大江湖となっており,「常陸国風土記」ではその部分として信太流海・榎浦流海・佐我流海を挙げ,中世には香取海(香取文書),あるいは香取ケ浦(佐原伊能家文書)と呼ばれている。香取海の西には常陸川(広川)がのび,その上流域は沼沢地域で西方の渡良瀬水系に接していた。また鬼怒川(毛野川)や小貝川が注ぎ込んでおり(今昔物語集巻25源頼信朝臣平忠恒を責むる語),香取海の末流は,「常陸国風土記」には安是湖(あぜのみなと)と見え,銚子から太平洋に注いでいた。鎌倉期ごろより水運が発達,香取海の水域では神崎が水運の要地として栄え,文永9年には神崎関の関手収取をめぐり走湯山灯油料船の梶取と千葉左衛門四郎為胤とが相論を起こしている(伊豆山神社文書)。南北朝期応安7年の「海夫注文」には香取海沿岸の港津として常陸国側の現北浦および霞ケ浦沿岸に45か所,下総国側に24か所が見える(香取旧大禰宜家文書)。また香取海から太日川などを経て東京湾にいたる水路も利用され,北総地域と鎌倉方面とを連結。この水路に沿い,室町期には神崎のほか戸崎・大堺・彦名・行徳などに鶴岡八幡宮・香取神宮を本所とする関所を設置(香取文書など)。戦国末期には千葉氏が領国統治と軍事にこの水運を活用(原文書など)。天正20年徳川家康の臣松平家忠は武蔵忍城から舟で新領地下総国上代に向かい,香取海沿岸の小見川に上陸,そのまま小見川より江戸宛に数度兵粮舟を送っている(家忠日記)。天正18年徳川家康が江戸にはいると,利根川と渡良瀬川両川を現在の流路に変更する瀬替えが開始された。瀬替えの目的は,第1に水田開発による食糧の確保(一説に100万石を見積もったという),第2に水運を整備し,東北地方からの廻米を便ならしめること,第3に上水に利用し,江戸の飲料水を確保すること,第4に,江戸防備のための外堀としての効用をねらったものであった(利根川治水史)。慶長年間,関宿の北方,利根川と渡良瀬川との間に逆川を掘削して利根川の水を渡良瀬川に分流,元和7年,逆川を改修して完全に利根川から遮断するとともに,太日川を改修して江戸川と改称した。その後,承応3年,利根川の水を鬼怒川に東流させるため,赤堀川を掘削し,以後,利根川は現在の流路になった。工事は,関東郡代の伊奈忠次,忠治,忠克の3代によって成し遂げられた。以後,銚子から利根川を遡上して関宿に至り,ここから江戸川を経由して江戸に至るという利根川水運が発達する。寛永10年幕府は川船奉行(享保6年以降川船改役)を任命,利根川水系の舟運を統制下に置き,次いで元禄3年河岸吟味を実施し,「関八州伊豆駿河国廻米津出湊浦々河岸之道法并運賃書付」(徳川禁令考)を公示,境・関宿より下流の利根川筋では境・取手・小堀・布川・木下・安食・印旛浦・船尾・西大須賀・源太・佐原・津宮・結佐・大舟津・小見川・阿玉・野尻などの河岸が見える。これらを中継港とする中・下利根川と江戸川の水運は東廻り航路に組み込まれ(いわゆる内川廻り),元禄期ごろまでは幕府領および東北各藩の廻米輸送を中心に展開。明和・安永年代ごろから九十九里の干鰯,銚子沖の鮮魚,佐原・神崎の酒,野田・銚子の醤油などの江戸送りが増加。たとえば鮮魚は銚子から「なま船」で木下ないしは布佐へ運ばれ,陸路木下からは行徳河岸へ,また布佐からは松戸河岸へ駄送され,さらに舟で江戸へ急送された。物資運送には高瀬舟が用いられた。また木下河岸の茶船など利根川の舟運を利用した香取・鹿島・息栖の三社詣りや銚子磯めぐりが盛行,多くの江戸の文人墨客らが下利根方面を訪れている。利根川の水運は明治以降も続き,明治10年内国通運会社により定期汽船航路が開設され,蒸気船第一通運丸が就航,同16年同社と銚子汽船会社が提携し,銚子~東京間の連絡輸送を始めた。同23年には現柏市地先の利根川と現流山市地先の江戸川とを結ぶ利根運河が開通,水運の便を図った。利根川水運の盛況は鉄道と競争しつつ昭和初期まで続き,その間大正期には川蒸気25隻その他が就航していた。しかし昭和8年利根川に並行する国鉄成田線の全線開通以後は衰微し,現在はまったく見る影もない。一方,香取海への利根川水系の流入は香取海の急激な陸化を促し,新州への新田開発が進行。天正年間に始まる新島十六島の開村,寛永年間に始まる布鎌・印旛沼の逆デルタ地域の新田開発,また文化年間以降本格化する香取海東部の小見川・笹川方面の砂州の耕地化などにより,水田単作の今日の下利根平野の景観が形成された。しかしこのような砂州の拡大や新田開発は流水の停滞をまねき,下利根川一帯の洪水が問題化した。江戸期には天明6年を代表として10回,明治期には明治43年を代表として6回,昭和にはいっても,昭和22年のカスリン台風による洪水のほか12回が記録されている。原因として,流量の多さとともに,下流部分の標高差が少なく,湖沼が多いこと,さらに堤防の不備があげられている。現在では,上流部分に,藤原・矢木沢などの多目的ダムの完成により,流量調節が可能になり,また中流域の渡良瀬遊水地の設定,明治8年以後の国直轄の治水事業による下流部分の利根川堤防の完備,昭和期の両総用水,大利根用水の完成などにより,水害の危険性は薄れ,あわせて全国有数の穀倉地帯が出現した。反面,流量の減少をもたらし,海水の逆流現象を生じたが,それも昭和46年の利根川河口堰の完成により解消された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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