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八幡神社
【はちまんじんじゃ】


館山市八幡にある神社。祭神は品陀和気命・帯中比古命・息長帯比売命。鶴谷八幡神社・那古八幡神社と呼ばれた。館山湾(鏡浦)に面する弧状海浜の中央近くに位置する。「大日本国誌」所載の社伝には,豊前宇佐神宮の神が府中に勧請されていたのを,養老元年に安房郡司紀伴人が現在地に移したとある。また,別の社伝では,平安中期頃安房国総社として国府近く(三芳村府中)に創建され,鎌倉期に現在地に移されたという。一方「房総游乗」には,養老年中に紀伴人が宇佐神を現在地に勧請したとある(安房国神社志料)。社伝によれば,建保元年に源実朝が社殿を造営,貞治3年には足利基氏も社殿を造営したという。南北朝期には安西八幡宮と呼ばれたらしく,貞治5年9月29日付鎌倉公方足利基氏御教書写によれば,相模国鶴岡八幡宮の神主大伴時国は「安房国安西八幡宮領同国郡(群)房庄内広瀬北方事」について鎌倉公方に訴えている(鶴岡神主家伝文書/神奈川県史資料編)。康応2年2月11日付安房国守護上杉某遵行状によれば,大伴時国の申し出によって,上杉某は鶴岡八幡宮の社家代官にこの地を沙汰付けるよう大喜実昌に命じている(鶴岡神主家伝文書/県史料県外)。永正5年9月25日付棟札には「大檀那副帥(師)源義通」,元亀3年12月20日付棟札には「大檀那副将軍源義弘」と見え,里見氏の庇護をうかがうことができる。同棟札には「国衙奉行人」の名も記され,安房国衙との関係がうかがえる(県史料金石1)。当社の別当は真言宗那古寺。寛永13年に幕府から,八幡村のうちの171石余を朱印社領として与えられた(寛文朱印留)。現本殿(市文化財)は享保4年9月の建造であるが,関東大震災の時に倒壊。昭和51年に大修理が行われた。明治6年に郷社,昭和15年に県社。9月14~15日に行われる国司祭には,安房神社をはじめとする安房国内の主要な神社の神輿が当社に集まる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7056519