下高輪町
【しもたかなわまち】

旧国名:武蔵
(近世~近代)江戸期~昭和42年の町名。昭和22年からは芝(しば)を冠称。江戸期は荏原(えばら)郡麻布(あざぶ)領のうちで幕府領。南は北品川宿(品川区),北は上高輪町・伊皿子(いさらご)町に接す(新編武蔵)。「田園簿」の石高は190石余,うち畑地157石余,「元禄郷帳」では201石余,「天保郷帳」では173石余。「新編武蔵」では下高輪村とある。寛文年間までに8万239坪の地が日蓮宗長祐山承教寺・浄土真宗護念山証誠寺・海徳寺等と奥平氏・浅野氏・松平氏など諸大名の御用地となる(新編武蔵)。領域内を東海道が通り,正徳3年,街道沿いの43石余の地が町奉行支配に属し,高輪北町・中町・南町・北横町・台町・小台町と常光寺・国昌寺・証誠寺・保安寺・知将院の5門前町となる(新編武蔵)。年寄与蔵の先祖田中但馬安泰は新田家支流と伝え,この地を開墾し,屋号を高輪屋と称したという。また町内には松平采女正・有頭玄蕃頭・松平豊後守などの抱屋敷があったほか,小名洞(ほら)の地に3体の石像からなる庚申塚があった。化政期の家数122軒(新編武蔵)。東禅寺と安泰寺の間の坂下の窪地をぼらと俗称。東禅寺は幕末の安政~文久年間頃,英国公使館が置かれ,境内には10か所の番所が設けられたという。文久元年,水戸浪士14人が乱入し,英人2名を傷つけた事件が起こっている。明治元年東京府に所属。明治2~5年,町内の町奉行支配に属した5町・5門前は,高輪北町・高輪南町・高輪台町・芝二本榎(しばにほんえのき)町2丁目となり,残余の下高輪町は明治11年,芝区に所属。同年一部が高輪北町に合併。同5年の戸数108・人口348(府志料)。同41年の世帯104・人口524。昭和22年からは港区に所属。同42年現行の高輪3丁目14~23番の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7061326 |