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甘縄
【あまなわ】


旧国名:相模

(中世)鎌倉期~室町期に見える地名。相模国鎌倉郡のうち。「吾妻鏡」治承4年12月20日条に「藤九郎盛長甘縄之家」と見え,源頼朝が御行始として当地にあった安達盛長の家に渡御している。安達盛長は,源頼朝が伊豆国に配流されていた頃から仕えていた家人で信頼も厚く,頼朝が御行始のときや当地にあった甘縄神明宮参詣の帰途などに当地の盛長の家に渡御したことが同書に散見する(吾妻鏡寿永元年正月3日・文治2年正月2日・建久5年正月8日・同年閏8月22日・同年12月1日・同6年正月4日・同年12月22日などの条)。また文治2年6月10日,頼朝は病気の盛長の妻丹後内侍を当地に見舞っている(吾妻鏡)。建久2年3月4日小町大路あたりから出火,鎌倉は大火事となり,鶴岡八幡宮・幕府にも延焼したため,源頼朝は「藤九郎盛長甘縄宅」に移り,同年7月28日に新御亭に入るまで滞在した(同前)。以降,この「甘縄宅」は盛長から景盛―義景―泰盛と相伝され,北条政子をはじめ源実朝・藤原頼経・同頼嗣など代々の将軍の御行始,甘縄神明宮参詣などに際して渡御の対象となっている(同前正治元年8月19日・建保3年4月2日・暦仁元年正月20日・寛元元年正月5日・同2年6月13日・同4年正月4日・建長3年正月5日などの各条)。また,永仁元年2月,文永・弘安の役で活躍した竹崎季長が,安達泰盛の「あまなはのたち」に来てその戦功を訴えた(竹崎五郎絵詞/続群20上)。当地にある甘縄神明宮は,和銅3年8月の行基の草創で,源頼義が相模守として下向した際,上野介平直方の女をめとり,神明宮に祈って当地で八幡太郎義家を生んだと伝えている(鎌倉市史社寺編)。そのため,源頼朝の信仰も篤く,度々の参詣のほか,文治2年10月24日には安達盛長に命じて宝殿を修理させ,四面の荒垣と鳥居を立てさせて,自らその場に臨んでいる(吾妻鏡)。当社については「吾妻鏡」に「甘縄神明宮」(文治2年正月2日条)「甘縄宮〈伊勢別宮〉」(建久5年6月26日・同年閏8月22日の両条)などと記されている。伊勢別宮が,神戸や御厨に勧請されることが多かったことから,当地を大庭御厨のうちに含める説もあるが(鎌倉市史総説編),不詳。大庭御厨を伊勢神宮に寄進した鎌倉権五郎景政の廟社である御霊社が,近くの鎌倉市坂ノ下にあり,当地を含めたこのあたり一帯が鎌倉氏の本拠であったので勧請されたとの説もある(鎌倉市史社寺編)。ちなみに,「吾妻鏡」建久5年正月4日条によれば,源頼朝は「甘縄宮・御霊社」の両社に奉幣使を立てている。同書寿永元年12月7日条によれば,深夜ひそかに鶴岡八幡宮に参詣した源頼朝に対して,「君御座」に着する者としてとがめた承仕法師栄光に,頼朝はその賞として「甘縄辺田一町」を与えている。また,文治元年12月28日,「甘縄辺土民〈字所司二郎〉」が梱の上で頓死するという事件が起きているが,これは崇徳上皇のたたりで鎌倉権五郎景政と称する老翁がその使となっていたという(吾妻鏡)。寛喜3年10月19日には,五大尊堂(明王院五大堂)の建立の地が二階堂御堂の地から当地に改定され,「城太郎南,千葉介之北,被点定西山之傍」と定められているが,同月25日の火事のため延引されている(吾妻鏡)。この当時鎌倉には火事が多く,当地も罹災することが多かった。例えば,「吾妻鏡」元仁元年3月19日条には「丑刻,甘縄山麓以南三町余焼亡,千葉介胤綱家在其中」とあり,また寛喜元年12月25日には窟堂下あたりから出た火が,強風にあおられ若宮大路から当地にまで及んでいる。同書同3年正月25日条には「同時甘縄辺人家五十余宇焼失,放火云々」とあり,当地にはかなり多くの人家が立ち並んでいたことが知られる。ついで,正嘉2年正月14日(吾妻鏡では17日とする)には,当所の安達泰盛の屋敷から出火,おりからの南風にあおられて鎌倉中が焼失した(鶴岡社務記録)。一方,当地には御家人の住居も多く存在し,「吾妻鏡」からは前述の安達氏の屋敷のほか,千葉氏家(建保元年2月15日条など),宮城家業宅(正治2年8月21日条),地相法橋宅・北条時定第・同時隆第(建長3年2月10日条)などがあったことが知られる。また,聖教奥書(金沢文庫古文書/県史資2‐1012)には「弘安八年八月九日談了,相州鎌倉甘縄称無量寿院西僧坊見聞之也」とあり,当地に無量寿院なる寺院があったことが知られる。なおこの無量寿院に当たるか不詳であるが,南草(南向作法)奥書(仁和寺所蔵/同前1‐427)に「建長五年〈癸丑〉四月廿二日,於鎌倉甘縄御房奉伝授了」と見える。「見聞私記」永仁5年閏10月7日条によれば,未刻佐々目谷から出た火事が当地にまで延焼し,「甘縄宿坊焼失,於聖教等出用半被出了」とある(続群30上)。また,「常楽記」嘉暦2年3月26日条には「甘縄駿河入道殿他界〈五十五〉,俗名顕実朝臣」と,年未詳9月7日の円秀書状にも「先代甘縄の駿州之御息かう首座として」とあり(金沢文庫古文書/県史資3上‐3823),当地に金沢貞顕の弟顕実の屋敷があったことが知られる。仁治2年11月25日の関東下知状案(相良家文書/同前1‐353)によれば,「甘縄地」が市左衛門尉明定からその子明胤と女子坂上氏女に分譲されている。そのほかにも,当地内の屋地に関する譲状が残っており,建治3年11月5日の高井時茂譲状では「あまなのち半分にし」が義頼(のち茂連)に譲られているが(中条家文書/県史資1‐833),弘安10年9月1日の関東下知状(同前2‐1052)には「鎌倉屋地等事」と記載されており,当地に屋地を持っていたことがわかる。なお,永仁2年6月12日の高井茂連譲状案(同前1160)には同地が「鎌倉由比之地」とある。ついで,延慶2年12月1日の平為度譲状(朽木文書/県史資2‐1757)には「高井兵衛次郎跡甘縄地 一部(戸)主卅四文」と見え,子息宗度に譲られており,同地の所有者が三浦氏の一族高井氏から平氏に替わったことが知られる。以降,元亨2年11月26日の平宗度譲状(同前2328)および同日の平宗度置文(同前2329)によれば,同地は平増一丸(顕盛)・亀松丸に分譲されているが,改めて嘉暦3年6月11日の平宗度譲状(朽木文書/県史資2‐2665)で「鎌倉甘縄魚町東頬地一円」が嫡子顕盛に譲られた。そして,元徳2年9月22日の平顕盛譲状で同地が子息万寿丸(佐々木経氏)に譲与されている(朽木文書/県史資2‐2911)。その他,弘安元年10月3日には「鎌倉甘縄地」が岩松経兼から太郎政経に譲られ(岩松文書/同前865),徳治3年5月28日には「かまくらあまなわのやち」などが,留守亀弥丸から「しやうきやうゑもん四郎」に譲られている(留守文書/岩手県中世文書上)。また元徳2年3月18日の山内通資譲状によると,「一所 鎌倉甘縄地事」などが嫡子彦五郎通時に譲られており(山内首藤家文書/県史資2‐2853),同地は以降,貞和3年12月3日に通時から子息熊寿丸(通継)に(山内首藤家文書/県史資3上‐3990),ついで貞治4年6月1日に通継から養子である舎弟通忠に譲られている(同前4546)。下って,応永23年10月上杉禅秀の乱が勃発するが,当地には上杉憲基の派遣した佐竹右馬助(義憲)が陣している(湘山星移集/続群21上)。近世鎌倉郡長谷(はせ)村の小名に甘縄があり,現在の鎌倉市長谷のうちに比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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