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荏柄天神社
【えがらてんじんしゃ】


鎌倉市二階堂にある神社。旧村社。祭神は菅原道真。社蔵の「相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起」には,平安末期の長治元年,雷雨とともに天満宮の画像が降臨した。里民は堀河院へ奏上し,この地に社を建てその画像を納め崇拝したという。源頼朝は幕府の鬼門の鎮守として崇敬したと伝える(新編相模)。建仁2年9月11日の当社祭には,大江広元が奉幣使となっている(吾妻鏡)。建保元年2月25日渋河兼守は謀反の咎で処刑されることを聞き愁緒にたえず,社頭に和歌10首を奉じた。翌日工藤祐高がこれを将軍源実朝に奉り,実朝はこれに感じてその罪を許した。「吾妻鏡」は「已預天神之利生,亦蒙将軍之恩化,凡感鬼神,只在和歌者歟」と結んでいる。和歌のもつ功徳,それによる神の納受は「北野天神縁起」をはじめ,中世の神仏説話に数多い。寛元2年7月20日には,落合蔵人泰宗が7日間参籠し,密通の潔白の起請文を書いている(吾妻鏡)。社殿は弘安3年・延慶3年に火災にあっている(鎌倉年代記裏書/史料大成)。正応2年には「問はず語り」の作者も参拝しており,鎌倉末期には金沢称名寺明忍宛の長井貞秀書状に,当社法楽のため心経を行うことを依頼している(金沢文庫古文書1)。室町期には鎌倉公方の保護を受け,足利成氏の時は正月23日の例祭には必ず当社に参詣し,25日に千句の催し,2月23日~25日まで参籠するのが例格であった(鎌倉年中行事)。享徳4年6月16日,今川範忠が成氏追討のため鎌倉に入り,当社壇も破られ,天神の神体も駿河国へ持ち去られたが(鎌倉大草紙),長享元年に還座したという(鎌倉大日記)。戦国期の天文17年12月27日には小田原北条氏より,社殿造営のため社前に関を設け,その関銭が寄進された(荏柄天神社文書/県史資3下‐6863)。「役帳」には21貫100文の社領とある。天正18年4月豊臣秀吉より二階堂郷中の6か寺の1つとして禁制を受け(浄光明寺文書/同前9717),翌19年11月に徳川家康より鎌倉内で19貫200文の朱印社領を賜り近世期も継承した(記略・寛文朱印留)。慶長12年に滝川雄利が東西の脇殿を修造し,元和8年の鶴岡造営時には料材を賜り本社・末社ことごとく造営され,以後近世期にはたびたび鶴岡八幡宮造営の残木を賜って修造などをしたという(新編相模)。近世期の別当は古義真言宗一乗院(寛永10年・寛政3年の本末帳/本末帳集成)。明治6年村社に列格。社宝は鎌倉期弘長元年在銘の木造天神坐像・木造天神立像(ともに国重文)はじめ多い。なお現在前田育徳会蔵の「荏柄天神縁起」3巻(国重文)は当社旧蔵だが,当社に関する記述ではなく,京都の北野天満宮に関する縁起である。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7065936