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大山阿夫利神社
【おおやまあふりじんじゃ】


伊勢原市大山にある神社。延喜式内社。旧県社。祭神は大山祇大神・高龗神・大雷神。かつては石尊社(新編相模)・石尊大権現(東海道名所図会)・大山寺本宮などと称していた。現在は単に阿夫利神社・大山さまとも呼ぶ。丹沢山地の雄峰大山は標高1,251.7mで,阿夫利山・雨降山などと呼ばれる。社殿は大山頂上に本社・摂社,中腹約600mに下社がある。本社は大山祇大神,摂社は奥宮に大雷神,前社に高龗神を祀る。古くは本社だけで,農耕生産をつかさどる神々の天降る所が山頂の岩石と信じられ,そのため石尊社の名が生まれたと考えられる。山は海上からよく見えるため,航海守護神として鳥石楠船神が祀られていたが,現在はない。山頂の発掘調査で縄文土器(加曽利B式)などが出土し,信仰の古さが知られる。創祀は崇神天皇の代と伝える。天平勝宝7年に東大寺別当良弁が入山し,堂塔伽藍を建立(大山寺縁起/続群27下)。山上の石尊社をも含めて雨降山大山寺と号した。以後大山寺は別当寺として密接な関係をもって発展していった。元慶3年の大地震でことごとく倒壊したが,山下の伽藍に後れて寛平2年6月,棟梁文観5代目手中明王太郎景信が社殿を再建したという。「延喜式」神名帳大住(おおすみ)郡条に「阿夫利神社」と見える。平安期の山岳仏教の流行に伴い修験道の影響を受けた。僧侶・神官・修験者(山伏)が一山の運営に携わっていたがその中心は僧侶で,社前で社僧が祝詞とともに真言陀羅尼経も唱えた。石尊社は大山寺の支配下にあって,社務は一切仏式で行われた。山岳宗教の組織化により大山は相模の山岳修行の中心道場となり,全国に知られるようになった。中世以降は武将の崇敬を受けた。元暦元年に源頼朝が免田畠を安堵し,建久3年8月北条政子の安産祈願をしているが(吾妻鏡),これらはすべて大山寺に対して行われている。観応3年10月1日の足利尊氏による丸島郷寄進(相文/県史資3上‐4191),応永19年8月21日沙弥道源の高森郷寄進(同前5449),延徳2年5月の上杉定正禁制(相文/県史資3下‐6393)なども大山寺に対して出されている。当社に対しては,応永29年9月23日に足利持氏が「大山寺本宮」に武蔵国山崎郷内今井村を寄進したことが知られる程度で(同前3上‐5655),石尊社と大山寺の力関係がここでも知られる。正平元年6月後村上天皇が社司に中祓を科したと伝える。文明18年には聖護院准后道興が大山を訪ねている(廻国雑記/群書16)。南北朝期の大山の修験者は祭事だけでなく常に武を練っており,足利氏による伽藍修復・寺領寄進はこの武力的背景への配慮があったと考えられる(宮田登・宮本袈裟雄編:日光山と関東の修験道)。小田原北条氏も大山の武力をたのみ,伽藍造営・寺領寄進を行っている(北条五代記/集覧)。徳川家康も同様で,天正18年4月8日に禁制を下し(阿夫利神社文書/県史資3下‐9662),慶長10年正月には大山の武力を分散させるため「無学不律」の僧に下山を命じている(相州大山寺縁起/大日料12‐3)。彼らはのちに御師となって活躍する。近世期には,寛永18年・元禄6年・享保5年・安永7年・享和2年の社殿造営・修理が幕府により行われている(新編相模)。近世前期頃から関東・東海を中心として大山登拝を目的とした大山講が発生した。これは古代以来の山神崇拝と御師の布教活動による。講の組織は,大先達・先達・顧問・講元などに分かれ,参拝の時期は旧暦6月27日~7月17日までの20日間。6月27日~月末を初山,7月1日~7日を七日山,8日~12日を間の山,13日~17日を盆山と呼んだ。この期間に限り山頂の石尊社への参拝が許されたが,女人はこの期間も許されなかった(新編相模・東海道名所図会)。大山参りが一般に浸透すると,大山への初参りを成人儀礼とする風習も発生した。明治期頃まで埼玉・群馬・伊豆などで残っていたという。大山への参拝路(大山街道)は8道あったが,最も利用されたのは大山の表街道と裏街道だった。表街道は品川―神奈川―戸塚―藤沢―一の宮―伊勢原を経て大山へ入るコース。山麓の坂本村から22町で前不動,そこから男坂を18町登って不動堂,さらに28町で石尊社に着いた(新編相模)。当時は大山の下子易村まで石段が続いていた。街道沿いには不動尊像と「大山道」を刻んだ道標が各所にあった。「東海道名所図会」は当時の様子を,「別当八大院,其外坊舎十八院,御師百五十余宇」「坂路の両側民家軒端をつらねて,御師の家・旅舎・茶店,あるは名物の挽物店多し。坂路みな石段にして,惣数一万五千余もあり」と記す。明治維新の神仏分離に際し,石尊大権現の名を廃し大山寺から独立,現社号に改称。明治6年7月に県社兼郷社に列格。昭和27年阿夫利神社本庁として出発した。かつての石尊社が山頂の本社で,摂社の奥宮・前宮は,「東海道名所図会」に見える大天狗・小天狗祠である。中腹の下社は不動堂の跡地。例祭日は7月27日。8月17日までの間を夏山まつりと称す。この初日に江戸日本橋小伝馬町の「お花講」の人たちが頂上への中門を開く。これは「お花講」結成以来のしきたりで,元禄以前から続いている(根本行道:相模大山と古川柳)。8月28日には奈良春日大社から伝授された倭舞・巫女舞が奉納される(県無形民俗文化財)。また納め太刀の風習は,源頼朝が武運長久を祈って佩刀を奉納したのが始まりで,招福除災の祈願のために木太刀を納めるもの。本物の太刀を奉納したものもあり,安政4年に江戸品川の「太刀講」が奉納した祐光作大太刀,文化4年の吉正作大太刀などが現存する。農民からは五穀豊穣・雨乞の神としても信仰を受け,1月7日に筒粥祭が行われる。なお,社名の「あふり」は農耕に支援を与える祖霊を「はふる」(葬送)意味だという(宮田登・宮本袈裟雄編:日光山と関東の修験道)。明治12年に発掘され,縄文後期作と考えられる古瓶2個・古鏡が発見された。




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「角川日本地名大辞典」
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