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川勾神社
【かわわじんじゃ】


中郡二宮町山西にある神社。延喜式内社。旧郷社。祭神は大名牟遅命・大物忌命・級津彦命・級津姫命・衣通姫命。相模国二の宮を称し,古くより二宮大明神と呼び習わされている。社伝では,垂仁天皇の時,師長国造阿屋葉造が勅命を奉じて,相模国鎮護のために創祀したという。その後,磯長国造大鷲臣命・相模国造穂積忍山宿禰・同国造弟武彦命等が崇敬,また日本武尊が東国平定の時に奉幣したという。允恭天皇の妃衣通姫が皇子誕生安穏のために当社に祈願し,その後源義家も戦勝祈願の奉幣をしたと伝える。「延喜式」神名帳余綾(よろき)郡条に「川勾神社」と見える。二宮と称した時期は不明だが,「吾妻鏡」建久3年8月9日条に,源頼朝は妻政子の安産祈願のため「相模国神社仏寺」に神馬を奉納し経を誦せしめた。その中に「二宮〈河勾大明神〉」とあり,その頃には二宮と称されていた。当社が二宮として国内で重要視された背景には平安末期における郡司級在地領主や在庁官人の介在が想定され,「新編相模」には応永の頃に回禄して古伝を失ったとある。神官二見氏の祖藤原景平は伊勢国二見七郷を知行して二見氏を称した。永延元年,当国に下向し当社の初代神主となる。神宝とされる「網石」(現存)は二見氏祖先が「勢州二見浦より携来りし物」で,「河中に投じ,雨を祈るに験あり」と伝える(新編相模)。元亀3年閏正月17日付北条家朱印状の「二見民部丞」は景俊と推定され(川勾神社文書/県史資3下‐8099),「紅林助右衛門給并三島麻役銭」を彼に下給している。ほかにも,北条氏は二見氏に対して武具の調製を命じ(同前8100),二見氏がこの頃明らかに小田原北条氏の家臣として武士化していたことが知られる。文禄2年正月2日付徳川家康黒印状では,二見神主が家康陣中見舞いに参上した労をねぎらっている。天正19年に社領50石が定められ近世も継続した(記略・寛文朱印留)。別当寺は成就院で,二ノ宮山神宮寺と称し,古義真言宗。開山は良伝で長保元年に死亡。もと字釜野の地にあったがいつの頃にか当社地に移ったという。本尊は十一面観音,本地は薬師如来で,ともに行基作と伝える(新編相模)。明治期の神仏分離で寺院を分離。明治6年に郷社,昭和7年に県社昇格の内示を受けた。10月10日の例祭は浜降祭と呼ばれ,古くは6月晦日に当所の海浜に神輿を担ぎ来りて祭事を行うもので大祭と称した(同前)。現在毎年5月5日の国府祭には当社も参加し,以前は旧5月5日で国府惣社の神揃山に国内の主要神社(一の宮以下5社)の神輿が集合するものであった(同前)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7066612