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寒川神社
【さむかわじんじゃ】


高座(こうざ)郡寒川町宮山にある神社。延喜式内名神大社。相模国一の宮。旧国幣中社。祭神は寒川比古命・寒川比女命。「新編相模」には祭神を応神天皇とし,当社の創祀について「一宮巡詣記には神亀四丁卯年の鎮座,或は天平神護元乙巳とも,承和元甲寅年十一月十日再興など記して一定せず」と見える。社伝に雄略天皇の時に奉幣のことがあったという。祭神の2神は未詳だが,この地方の古代豪族に関係のある神であろう。「続日本後紀」承和13年9月8日条に「奉授相模国无位寒河神従五位下」と見え,以後斉衡元年3月14日に従四位下(文徳実録),貞観11年11月19日に従四位上,元慶8年9月21日に正四位下(三代実録),延喜16年正月に正四位上に進階した(扶桑略記裏書)。その後の沿革は未詳な点が多いが,平安期には相模国一の宮になったと思われ,「吾妻鏡」建久3年8月9日条に,源頼朝の妻政子の出産時に相模国内諸社寺に対して祈祷を命じた中に「一宮佐河神社」とあるのは当社のことと考えられる。これより先寿永元年8月11日に,やはり頼朝嫡男出産の際の祈祷寺社として「相模一山梶原平次」と見える一山は一宮の誤りと思われ,「新編相模」は奉幣使梶原平次が当社付近に住していたことをその証拠としている。「義経記」の文治元年10月条にも「当国の一の宮と申すは,梶原が知行の所なり」とある。このように平安末期には相模国一の宮と称し,幕府により篤く信仰されていた。建保2年10月2日相模守北条義時は「当国一宮」に奉幣使を遣している(吾妻鏡)。鎌倉後期以降室町期にかけては未詳な点が多い。大永2年9月には小田原の北条氏綱が社殿を再興し,その棟札には「相州一宮御宝殿破壊日久矣,依之奉再興」と見える(新編相模)。北条氏康も天文15年3月に社殿を再興するなど(同前),小田原北条氏による保護は厚く,「役帳」によれば「一宮社領二十七貫」であった。徳川家康は天正19年11月に一宮郷内で朱印社領100石を寄進し,近世も継続した(記略・寛文朱印留)。別当は薬王寺で,寒川山医王院と号し古義真言宗(本末帳集成)。承和元年11月に僧弘便が開創したと伝え,古くは同寺の本寺安楽寺が当社の別当寺であったともいう(新編相模)。明治期に薬王寺は廃絶した。明治4年5月に国幣中社に列格。社宝として武田信玄着用と伝える兜があり,天文6年3月の銘を有する。例祭は9月20日。5月5日の国府祭(県無形民俗文化財)は国府に近い相模国総社と称される六所神社(中郡大磯町国府本郷)の祭だが,その祭の時,当国の一の宮寒川神社,二の宮川勾神社(中郡二宮町山西)以下五の宮までの神輿が六所神社近くの神揃山に集まるというもの。その際当社と二の宮川勾神社が座次を争う場面がある。ほかに7月15日に茅ケ崎市の海岸で行われる浜降祭も当社の神輿を中心とした有名な行事である(県無形民俗文化財)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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