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称名寺
【しょうみょうじ】


横浜市金沢区金沢町にある寺。真言律宗。金沢山弥勒院と号する。本尊は弥勒菩薩。寺伝によれば当寺は北条(金沢)実時が釜利谷から当地に邸を移建し,邸内に母の菩提を弔うため文応元年建立した念仏寺に始まる。実時・顕時父子が伽藍を整え,文永年間に開山として妙性房審海を招請。真言律の寺となったという。実時は境内に仏典・和漢の書籍を集めて金沢文庫を設立し,図書の出納管理を当寺僧に委任していた(関靖:金沢文庫の研究)。創建当時の寺領は下総国下河辺荘赤岩郷内の3村と当寺の「内外敷地」のみである(金沢文庫古文書7)が,顕時は寺用という制度を敷き当寺を維持した。寺用とは一門の所領より米銭を寺に収納し寺院経営費にあてる制度(横浜市史1)。2世住持剣阿・3世湛睿(たんえい)の頃最も興隆し,実時の直孫金沢貞顕とその子貞将から下総国埴生(はにう)(印旛)郡埴生荘・海上(うなかみ)郡東(橘)荘・結城郡毛呂郷,上総国周東郡の諸村,加賀国軽海郷,越後国奥山荘,因幡国千土師郷,下総国下河辺荘赤岩郷内14村,信濃国石村郷,当国六浦荘富田郷(釜利谷)の寺領を寄進安堵された(金沢文庫古文書7)。しかし東荘・周東郡の諸村・千土師郷の領有について千葉氏一族の東氏が異議を唱え,鎌倉幕府滅亡後押収した。室町幕府がこれを停止したが応永年間以降には東氏の所領になってしまったと思われる(金沢文庫古文書7・横浜市史1)。元弘3年後醍醐天皇は「元より勅願寺たるの上」として寺領を安堵(金沢文庫古文書7)。南北朝期観応3年足利尊氏より洲崎・町屋の塩垂場(製塩場)が寄進され,明徳3年には神奈川・品川の2湊が当寺領となる(金沢文庫古文書7)。室町期応永29年当寺造営費として六浦荘にある常福寺の門前で人別2文・駄別3文の関税徴収を許可され,永享4年鎌倉公方足利持氏から六浦大道の関所を3年間寄進された(同前)。持氏は同10年の永享の乱に敗れ,当寺で出家している(永享記/続群20上)。2湊からの帆別銭と関銭との新財源を得たが,一方加賀国軽海郷のような遠方の寺領から侵略され,しだいに寺領を失って寺運は衰退(横浜市史1)。小田原北条氏の支配下に移って寺領77貫文を当地に賜る(役帳)。近世期は奈良の西大寺末(新編武蔵),徳川氏の保護を受け朱印地100石を寄せられた(寛文朱印留)。慶長7年徳川家康が金沢文庫の蔵書を江戸城南富士見亭に移して文庫は廃絶。寺運も再び衰えはじめた。その後昭和初期文庫を再興。境内には天元元年建立の本堂,正安3年鋳造の梵鐘,北条実時の墓などがあり国史跡。寺宝として文選集注(平安期作)と絹本著色北条実時像・北条顕時像・金沢貞顕像・金沢貞将像(鎌倉期作)の国宝,建治2年3月30日の胎内銘がある本尊の木造弥勒菩薩立像,鎌倉期作の木造十一面観音立像と金銅愛染明王像(以上国重文)等を所蔵。当寺付近は明僧の心越興儔(こうちゆう)が中国瀟湘に模して選定した洲崎の晴嵐,瀬戸の秋月,小泉の夜雨,乙艫(おつとも)の帰帆,称名の晩鐘,平潟の落雁,野島の夕照,内川の暮雪からなる金沢八景として知られた。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7067391