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瀬戸神社
【せとじんじゃ】


横浜市金沢区瀬戸にある神社。旧郷社。祭神は大山祇命。速須佐之男命・菅原道真を配祀する。俗に瀬戸三島大明神(殿中以下年中行事/群書22)・瀬戸明神社(鎌倉志)・六浦社(役帳)などと呼ばれていた。創祀については2つの説がある。1つは当社の南方海上にある昇天山金竜院境内にある飛石に祭神が飛来したとする説(鎌倉志・新編武蔵)。飛石の前に鳥居を設けていることから,巨石に対する古代信仰の名残ともみられる。他の1つは,源頼朝が挙兵の際に三島明神(現三島大社)に戦勝を祈願し,治承4年の鎌倉入府とともに当地に三島明神を勧請したという。当社付近は海水が急速に流れる「瀬戸」であり,古くから海神の祀られた場所であったと思われる。中世以降,瀬戸三島明神として衆庶の尊崇を受け,社伝では正応2年に北条貞時が社殿を修造したと伝え,北条家の家紋を刻んだ鎌倉中期の化粧瓦も出土している。また文和3年には千葉胤義が初めて神主となったと伝え,貞治6年9月には義堂周信が(空華日工集),享徳3年には足利成氏が参詣している(殿中以下年中行事/群書22)。さらに年欠の8月12日付鎌倉公方巻数請取状には,「於瀬戸社頭,本地護摩数日被修,巻数給候」とあり(金沢文庫古文書/県史資3上‐5973),足利持氏が当社で護摩を修しているなど,特に北条・足利氏との関係が強かったことが推測される。応安7年4月15日には沙弥釈阿によって梵鐘が鋳造された(日本古鐘銘集成)。小田原北条氏も鎌倉北条氏にならって当社を尊崇し,85貫958文の社領を安堵している(役帳)。伊豆三島社の78貫文・金沢称名寺の51貫970文と比較すると当社領の大きさがわかる。天正19年11月には徳川家康も六浦郷の内100石を寄進し(寛文朱印留),慶長5年7月1日には自ら参詣している(朝野旧聞裒藁/内閣文庫蔵)。その後,寛文7年3月・元文5年11月・寛政12年8月に社殿の修造が行われている(棟札)。明治6年郷社に列格。同42年付近の熊野神社以下8社を合祀。社宝として,延慶4年藤原経尹書のほか,抜頭面(建保年間伝運慶作)・陵王面・獅子面がある。この3点は北条政子奉納の源実朝所用能楽面という。例祭日は5月15日で平潟湾内の琵琶島弁天社まで神輿渡御がある。7月上旬(かつては7~14日)を天王祭と称し,厄除の神輿が町内を巡幸する。特に3日目夕刻の「三ツ目神楽」(湯立神事)は鶴岡八幡宮に伝来した鎌倉神楽を伝承するもので古態を残す。なお室町期の謡曲「放下僧」はその仇討の場所を当社境内としており,当社古図(鎌倉志)に見える薬師堂,あるいは三本杉の付近といわれているが,現在は両方ともなく,境内手水舎の東側付近とされている。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7067608