大鋸
【だいぎり】

旧国名:相模
相模野台地南東端,境川下流左岸に位置する。清浄光寺(遊行寺)の門前町として発展した。大鋸は大形のこぎりのことで,地名は大鋸引の職人集団が当地に居住したことにちなむ。弘治元年12月23日の北条家朱印状の宛所は単に「同木工助」となっているが,関連文書から森弥五郎と森木工助にあてられたことがわかる(森文書/藤沢市史1)。さらに「相文」所収のものには両名の居所として「藤沢大鋸町」の注記があるが,これについては後補の可能性があり(同前/県史資3下‐6997),戦国期に当町名が用いられていたか否かについては確証がない。しかし本文書から,地内の伝馬屋敷6軒の年貢徴収権を森氏が有していたことがわかり,永禄11年と推定される10月2日付の北条氏康印判状(同前7624)に「藤沢大鋸引頭 森木工助」とあることから森氏が大鋸職人の長であったことが知られる。またこの職人集団は,客寮と呼ばれ,清浄光寺の門前に居住し,同寺の造営や修造にあたって,後背に連なる御幣(おんべ)山からの切出し・製材に従事したと伝える。彼らは近くの玉縄城主の配下には属さず,元亀2年と推定される6月朔日付の北条綱成判物などから,小田原北条氏の直接の支配下にあったことがわかる。森氏は寺院の修造や北条氏の伝馬御用に関係するほか,北条氏繁による飯沼城の増築にも出役したり,のちには藤沢における商売免許にもかかわっている。さらには天正6年2月19日の北条氏繁のものと推定される印判状(同前8438)では,遊行寺門前に欠落する僧尼の取締りを命じられており,広汎な活動を行っていたことがわかる。なお考古遺跡としては国鉄東海道本線藤沢駅約800m北東方に御幣山台地があり,縄文・弥生・古墳時代の各遺跡が確認されたが,日本住宅公団藤沢団地や公園の造成によって遺跡および「新編相模」に見える大谷帯刀左衛門公嘉の城跡は全く壊滅した。
【大鋸町(近世)】 江戸期~明治22年の町名。
【大鋸(近代)】 明治22年~現在の大字名。
【大鋸(近代)】 昭和44年~現在の藤沢市の町名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7067692 |





