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高来神社
【たかくじんじゃ】


中郡大磯町高麗にある神社。旧郷社。祭神は神皇産霊尊・天津彦穂邇々伎命・神功皇后・応神天皇。もと高麗神社・高麗権現社あるいは高麗三社権現と称した。社伝によれば,神皇産霊尊および天津彦穂邇々伎命の2神は神武天皇の時,神功皇后・応神天皇は安閑天皇2年5月に東夷鎮撫のため祀ったといわれる。「新編相模」では,「高麗寺山の頂にあり,又左右の峯に,白山・毘沙門」を勧請して高麗三社権現と称すとあり,いくらか祭神が異なっている。現在は山頂の上宮は廃れ,山麓の下宮が中心。鎌倉期成立の「筥根山縁起」(群書2)に,神功皇后が三韓を平定したのち,武内宿禰は「異朝大神」を当国鎮護のために勧請すべきことを建議し,百済明神・新羅明神・高麗大神を招来したが,そのうちの高麗大神は大磯に勧請されたとある。これらの伝承によれば当地は古代に渡来系の民が集住した地とも考えられ,当社はその神であったと思われる。別当の高麗寺は天台宗で,鶏足山雲上院と称した(現在の慶覚院)。「新編相模」によれば,当社境内に地蔵堂があり,本尊延命地蔵は曽我祐成ゆかりの虎御前が建立したとの棟札を有していた。その写しには建久5年9月11日の銘があり,「法虎妙恵禅尼持仏」「御腹籠祐成殿持尊仏而 空海大師御尊仏也」とある。「曽我物語」には虎御前が大磯の高麗寺山の奥に柴の庵を結んだと見え,そのゆかりの地として早くから有名だったことに関連するものであろうか。さらに「新編相模」には弘安11年の鐘を紹介し,銘文には「奉冶鋳高来寺鐘一口,大檀那四人,秦有信,内蔵光綱,沙弥明法,沙弥蓮光,衆徒二十四人」とあったらしい。高来寺の名はほかには見えない。社伝では,天文10年10月18日付の小田原北条氏の検地書に,11町余分銭67貫余の社領があったといい,また天正19年11月には徳川家康より社領100石の朱印をはじめとして,ほかに田畑26石余・山林46町余の寄進を受けたという。その後の沿革は未詳だが,現本殿は寛政5年の再建といわれる。7月18日(18日に近い日曜日にされる)の大祭は,すでに「新編相模」に「六月十八日〈此日大磯の浜辺,照曜崎と云所へ神輿を出し,大磯宿より,観音丸,権現丸と云船二艘を出す〉」と見えて有名。高麗寺の本尊十一面観音が海中から引き上げられた日が6月18日といわれ,この舟祭りもその伝説にちなむ。明治維新で高麗寺は廃寺となり,寺域に現在の下宮がある。天海僧正が高麗寺に下した寛永20年正月17日付の12か条掟書がある。それには「鶏足山高麗寺雲上院」に対して「神前之御供」を欠かさず「神事祭礼」を専らにし,「坊中神人百姓」などに対する別当の支配をも厳しく定めている。明治30年に高麗神社から高来神社に改称した。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7067749