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鶴岡八幡宮
【つるがおかはちまんぐう】


鎌倉市雪ノ下2丁目にある神社。旧国幣中社。祭神は応神天皇・比売神・神功皇后。康平6年に源頼義がひそかに石清水八幡宮を由比郷に勧請し,源義家が永保元年に修復したのを源頼朝が治承4年に現在地に遷した。由比郷の社は現在「由比若宮」と称し当宮の境外末社である。元八幡ともよぶ。頼朝が鎌倉に入る以前から,源氏の根拠地に八幡宮が祀られており,頼朝は祖宗を崇めこの社の奉斎を新たに興すことの出来る嫡流の立場を示したものである。旧地より現在地に遷すに当たり,頼朝は「本新両所用捨」を神前で籤をひき,神意を伺って決定したが,平家の軍を前にして取急いでの営作であった。寿永2年2月27日の源頼朝寄進状には「鶴岡八幡新宮若宮」とみえる。鶴岡若宮は養和元年より本格的な建築にかかり,若宮大路を修築し,源平池を掘り,境内規模が定められた。最近の発掘調査でも創建当初を推定することが出来た。寿永元年には園城寺の円暁を招いて正式な初代別当とし,翌年の社領寄進がなされた。「玉葉」寿永3年4月7日条に筆者である九条兼実を摂政に推挙する情報を載せている。「頼朝……奏聞之日,於八幡〈頼朝奉祝云々〉宝前,能致祈念之後,仰広元令書之」。鶴岡八幡が京都側の記録に初見したものであるが,同月24日にはこの書状が朝儀に議せられ,「七ケ日参籠八幡宮」のうえ神前で折紙に書かせたと見える。このことは京都側では八幡の神意として受けとめる真言の力があったと思われる。皇城鎮護・宮廷の宗廟である石清水と同じ八幡宮に,東国で頼朝が祈誓して意志を決めることを知った京人は,頼朝の言動を新しい目で見つめたにちがいない。文治2年に静御前が当宮の回廊で舞ったのは有名。翌年には放生会・流鏑馬が初めて行われた。建久2年3月,町屋の火が大火となり神殿・回廊・経所などが灰燼に帰した。頼朝は初めて石清水八幡宮を勧請するため,若宮上の地に宝殿を営作し,同年4月26日に上棟式と再建作業は速やかであった。同年11月21日に八幡宮ならびに若宮および末社の遷宮があった。この若宮上の地が現在の上宮(本宮ともいう)で,再建された若宮は下宮ともよばれた。建久2年の石清水勧請を「始め」とし,康平6年のものを「ひそかに」としたのは,「吾妻鏡」の合理化であろう。同年神主が定められ,この頃別当・供僧(25口)・小別当・神主・若宮神主・巫子・職掌・承仕などの祀職も整った。翌3年7月,頼朝が最も望んだ征夷大将軍の除書を持参した勅使を宝前に迎えた。また源実朝が京官を望んで,近衛大将・左大将さらに右大臣に任じられ,拝賀の儀式を神前で行ったのも,将軍として幕府の鎮守,武門の守護を仰ぐのみでなく,宮廷の機能をも合わせ持つ宮であったと思われる。以後鶴岡八幡宮は源氏の氏神として頼朝以下武士らの尊崇を受け,社領の寄進・定時臨時の参詣・流鏑馬・相撲・神楽・雅楽・放生会などの祭のほか,諸種の経供養が年中行事として行われた。鎌倉幕府は鶴岡八幡宮奉行をおき管掌した。御家人らも当宮の諸祭礼に参加することで結びつきを強めた。供僧もまた近隣寺社の諸職を兼帯している。所領は相模・武蔵を中心に下野・駿河・近江・周防・伊予などの各国に散在していた。武士の時代の隆盛とともに鶴岡八幡宮の分祀は全国に増した。足利尊氏も建武2年に佐々目郷,佐坪・一野両村の寄進から当宮と関係しはじめ,以後社領寄進や安堵などを含めて種々の保護を加えた。室町期には鎌倉公方が鶴岡総奉行を設け社頭の諸務を総轄した。鎌倉幕府,鎌倉公方の任免による別当・供僧らが頼朝の創業を鑑として護持につとめ,供僧の25坊は応永22年に20坊が,同27年に5坊がそれぞれ院号の宣下を受けた。供僧は最勝王経衆・大般若経衆・法華経衆・諸経衆など修正以下の年中行事,恒例臨時の祭儀,祈祷などを勤めそれぞれ料所があった。室町期にもたびたび修理がなされたが北条早雲の相模入国の頃にはかなり衰微していた。大永6年の里見実尭の鎌倉侵入で当社の諸堂社が焼亡し,北条氏綱は天文元年に再建を企てた。同9年11月に正殿遷宮が行われ,上宮以下ことごとく出来上がったのを見て「関東八ケ国之可為大将軍事無疑」との庶民の声を記している(快元僧都記)。「役帳」には社領255貫872文と院家分117貫文と記されるが,この課役されたもの以外を合わせて,永1,100貫程度の社領を有していたと思われる。天正18年の小田原北条氏の滅亡後は豊臣秀吉が社領を安堵し,徳川家康に当宮の造営を命じ,秀吉の奉行が造営の指図に当たり,文禄元年に修理は一応完了した。家康も鎌倉内で永840貫450文を安堵したが,かなりの減少である。幕府も以後,造営・参拝を怠らなかった。明治維新の神仏分離により,供僧・社僧らの仏教系の祀職は還俗して総神主を称し,護摩堂・大塔・輪蔵・六角堂・鐘楼・薬師堂・愛染堂などの諸堂は毀釈された。また社領とともに社有地のほとんどを上地した。明治4年県社に,同15年国幣中社に列した。境内地(史跡)およそ3万坪。供僧らの居住した御谷の地は分与されたが,その離散とともに民有地に化してしまった。昭和22年以降,宗教法人となり現在に至る。本宮は楼門を正面に回廊に囲まれ,本殿・幣殿・拝殿が棟をつらね,流権現造。内外ともに漆塗極彩色が施されている。文政11年徳川家斉の再建。若宮は本宮社殿と同様,流権現造だが拝殿に向拝がついている。寛永元年徳川秀忠の修営。他に源頼朝・同実朝を祀る白旗神社,承久の乱に配流された後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を祀る今宮,弁財天を祀る旗上社,丸山稲荷社などの摂末社がある。参道若宮大路の社頭寄りには段葛(だんかづら)の参詣道があり,太鼓橋・東西赤橋を経て境内に入ると,正面に舞殿(下拝殿ともいう)がある。右手に社務所・参集殿がある。鶴岡研修道場のほか県立近代美術館・市立鎌倉国宝館・牡丹園などの文化施設がある。例祭は9月15日,神輿3基を中心に二の鳥居まで神幸する。翌16日はやぶさめ馬場で流鏑馬神事を行う。国宝・重要文化財などを多数所蔵する。




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「角川日本地名大辞典」
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