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名越
【なごえ】


旧国名:相模

(中世)鎌倉期~戦国期に見える地名。相模国鎌倉郡のうち。古東海道の一部にあたる地で,地名に関しては,難越(こえがたし=なごし)ということにちなむとする伝承がある。なお「鎌倉市史総説編」によれば,「源平盛衰記」に治承4年8月の石橋山の戦に遅参した三浦一族の1人和田義茂は,三浦に帰る途中公用で鎌倉に立ち寄った際,兄の和田義盛に畠山重忠と合戦が起こると呼びもどされているが,そこに「犬懸坂ヲ馳越テ名越ニテ浦ヲ見レハ」とあるところから,当時名越は鎌倉の外に位置し,源頼朝が鎌倉に入って以降鎌倉の内となったとしている。当地には,鎌倉期北条氏や御家人の宿所などが数多く存在した。「吾妻鏡」建久3年7月18日条に「名越御館〈号浜御所〉」と見え,北条政子は当地にあった北条時政の屋敷を産所と定めて入御,10月19日に幕府に帰っている(吾妻鏡)。その後建仁3年9月2日,北条時政は比企能員を名越の自亭に仏事と偽って招き,これを仁田忠常・天野遠景に暗殺させ,9月6日功のあった仁田忠常を「名越御亭」に招き恩賞を与えている(同前)。また,10月8日には「遠州(北条時政)名越亭」で源実朝の元服の儀が行われた(同前)。その後,この館は北条義時に相伝され,「吾妻鏡」建永元年2月4日条によれば,将軍源実朝が雪を見るため「名越山辺」に出御した時,当地の「相州(北条義時)山庄」で和歌会が行われている。以降,代々北条氏の一流名越氏(義時の子朝時の子孫)の館として相伝された。「吾妻鏡」安貞元年12年14日条には「越後守(名越朝時)名越亭」,同書寛喜3年9月27日条には「名越辺騒動,敵打入于越後守第之由有其聞」と見え,評定の座にいた北条泰時が自らかけつけている。また同じく嘉禎元年閏6月15日・暦仁元年12月19日・仁治2年2月22日には,当地の朝時亭が将軍家方違の場所となっている。ついで同書正嘉元年8月18日条には「前尾州時章名越亭」と見え,朝時から子の時章に伝えられたことが知られる。また翌2年5月5日には「尾張前司名越山荘〈新善光寺辺〉」が将軍家方違の地と定められ,5月8日に新造されたことが見えている。ついで,「吾妻鏡」弘長3年12月28日条には,宗尊親王の側室宰子が産所に入る前の方違として,時章の子名越公時の「名越亭」に入っている。一方,弘長3年8月9日には北条氏の一族塩田義政が「名越亭」に移り住んでいる(吾妻鏡)。御家人の宿所としては,当地に問注所入道三善康信の「名越亭」があり,家の後面山際に文庫を構えていたが,承元2年正月16日に火事に遇い,累代の古文書・日記類が焼失したという(同前)。その他,同書延応元年12月13日条に加賀民部大夫三善康持・武田入道信光らの「名越家」,同書康元元年11月26日条に備前三郎長頼亭が見える。家が多かったせいか火事が多く,承久元年9月23日の鎌倉大火の際に東は「名越山之際」まで延焼したのをはじめ,安貞2年12月12日に北条朝時の名越亭,寛喜3年正月25日に越後四郎時幸・町野加賀守康俊宿所などが焼失した(同前)。「吾妻鏡」建長2年9月28日条には「名越辺焼亡」とあり,同4年2月8日の大火の際には「名越山王堂前」まで延焼している。そして永仁4年12月11日には「鎌倉大セウマウ,大しやうくんタウのハシノモトヨリイテキテ,コマチ,ヲウマチ,ナコエノ入,ミナヤケテ,人四百人ハカリヤケシニケリ」といわれる大惨事となっている(称名寺所蔵銅造宝篋印舎利塔裏落書/県史資2‐1208)。当地にある寺院についてみると,瑜祇経金剛夜叉口決奥書に「同(貞永二年五月)七日於名越西廟堂」(宝戒寺蔵/同前1‐321),秘蔵記奥書に「嘉禎三年〈丁酉〉六月廿二日,相州鎌倉名越於蓮花寺午時書了」(金沢文庫所蔵/同前327),尊勝法奥書に「寛元三年……名越禅室」(昭和現存天台書籍綜合目録下),梵篋印奥書に「同(文永8年12月)十一日,相州鎌倉名越参東陽寺」(金沢文庫所蔵/県史資1‐633),華厳五教章指事末奥書に「建治三年〈丙子〉三月廿四日,相州鎌倉名越蓮花寺」(同前794),倶舎論釈頌疏義鈔巻上奥書に「正応三年六月□八日書了,於相州鎌倉名越郷善導寺」(同前2‐1073),菩提心論私見聞に「徳治二年三月廿九日……名越善勝寺」(金沢文庫古文書12),教誡儀鈔奥書に「正和元年五月十五日,於名越竹鼻清凉寺書写了」(金沢文庫所蔵/県史資2‐1853)などが鎌倉期に見える。特に延慶3年6月4日の金沢実時後室代沙弥成覚相博状に「金沢殿御地名越新善光寺下毘沙門堂入地事,合陸戸主……右地者,以醍醐僧正御房西御門小笠原谷御地陸戸主,所被相博也」とあるように,金沢実時後室の所有する当地内新善光寺下の6戸主と永福寺別当親玄僧正が所有する西御門小笠原谷の地が交換され(東寺百合文書/同前1780),同年9月15日の関東御教書によって認められている(実相院及東寺宝菩提院文書/同前1788)。文永12年4月12日の四条頼基宛日蓮書状に「名越の事は,是にこそ多の子細ともをは聞て候へ」と見えるが(日蓮聖人遺文/県史資1‐776),「日蓮聖人註画讃」には「同(建長5)年,為諫国主,速自房州移于鎌倉名越松葉谷,栖小庵」とあり,日蓮は当地の松葉谷に小庵を結んでいた。日蓮は,文応元年8月念仏者に襲撃され,文永8年9月には平頼綱のためこの庵でとらえられた(続群9上)。そのために名越法性寺,お猿畠の伝承などを伝えている(新編相模)。また「鎌倉殿中問答記録」には,文保2年12月20日条に「名越松葉谷日印」とあるのとはじめとして,元応元年8月23日条・同年9月15日条などにも見えている(改定史籍集覧27)。この日印は日蓮の弟子日朗の弟子で,永仁2年に相州松葉谷で日朗に弟子入りしたという(同前)。その他,名越周辺ではいろいろな騒動が起きている。鎌倉初期,「吾妻鏡」建久5年8月20日条によれば,源氏の一門遠江守安田義定伴類5人が当地で梟首されている。また建保元年5月3日の和田義盛の乱の際,当地は重要な警固場所として藤原頼茂らが守護しており,また天福元年8月18日に鎌倉で殺人が起きた時には,その日がちょうど江島明神奉幣の日にあたっていたため当地を御家人らが固めていた(吾妻鏡)。当地は鎌倉から三浦半島へ通じる要所となっていたものと思われる。宝治2年9月19日には,三浦三崎方面から黄蝶が群れ飛び,当地のあたりに集まったという(同前)。下って南北朝期の建武元年4月18日の後醍醐天皇綸旨案で「鎌倉名越長布施屋敷」などが豊後大友氏の一族詫磨宗直に安堵されている(詫磨文書/県史資3上‐3160)。この長布施の地は,建長3年8月4日の関東御教書案で,詫磨能秀に宛行われた「長布施地内壱戸主」のことで(同前/鎌遺7334),代々詫磨氏に相伝されていた。なお,長布施の地は弘長2年8月20日の詫磨能秀譲状案に見える「鎌倉山王堂谷地事,在壱戸主内」と同地と推定される(同前/県史資1‐492)。また南北朝期から室町期にかけて,次のような寺院が地内にあったことがわかる。康永元年8月3日の覚園寺文書目録に「一巻 名越竹鼻寺用文書五通〈布施御年貢中毎年五十石事〉」とあり(覚園寺文書/同前3上‐3606),これは竹鼻清凉寺のことと思われる。康永4年4月28日には「〈名越保寿寺坊主〉良秀房真源」が灌頂を受けている(金沢文庫古文書/同前3743)。貞和元年11月9日の足利直義御教書によれば,建武元年に山内荘秋庭郷内信濃村が円覚寺に寄進されているが,その後同村は弘安7年の安堵状で鎌倉期以来「名越長福寺領」であることが明白となり,長福寺に替地が宛行われている(円覚寺文書/同前3749)。応安元年10月10日の惟賢筆光明真言講式奥書には,「於名越成就寺寿量院」と見える(宝戒寺文書/鎌倉市史史料編1)。明徳2年9月8日の足利氏満寄進状(別願寺文書/県史資3上‐5083)に見える「名越別願寺」は寺伝によれば,弘安5年に公認が真言宗から時宗に改宗,寺号も能成寺から別願寺に改められたという(鎌倉市史社寺編)。永徳2年10月29日,足利氏満が父基氏の菩提を弔うため「下総国相馬御厨内横須賀村」を別願寺に寄進(別願寺文書/県史資3上‐4907),明徳2年9月8日には「下野国薬師寺庄半分〈除福田・平塚両郷,逸見中務大輔寄進地〉」を(同前5083),応永13年5月12日には足利氏満が「同所(名越)報恩寺敷地并山林等〈雲沢庵放券,及明通四至境状在之〉」を(同前5378),同27年2月19日には,足利持氏が「同所(名越)門前畠等」をそれぞれ寄進しており(同前5609),鎌倉にある時宗寺院の中で鎌倉公方と最も縁が深い寺であったと思われる。その他,文安3年10月2日の古教妙訓証文に「名越花谷目足寺之旧敷地」が(黄梅院文書/県史資3下‐6049),天文18年9月18日の北条為昌室朝倉氏像銘に「相州小坂郡鎌倉名越安養院」が見えている(大長寺所蔵/同前6873)。天文18年頃当地が「小坂郡」と呼ばれていたことが注目される。当地に残る遺跡としては名越切通し一帯の南側の切岸は鎌倉の入口を守る要害であったし,鎌倉側にも多くの石畳・切岸・平場等があることから,軍事上の要衝であったことが想像される。なお,永正6年11月20日の長尾顕忠後家幸春寄進寺領注文に「一,名越分」(竜隠庵文書/同前6482),同年月日の幸春寄進寺領小作注文には「一,名越分 田壱町 年貢九貫二百文」(同前6483)と見えるが当地にあたるかは未詳。慶長5年正月吉日の建長寺水帳には「永高畑五百文〈小町高之内名越円応寺谷ニ有〉持主大町名越町 権左衛門」とあり,大町のうちに含まれていたことがわかる(建長寺文書/相文2)。江戸期の大町村の小名に名越があり,現在の鎌倉市大町3~7丁目あたりに比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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