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箱根神社
【はこねじんじゃ】


足柄下郡箱根町元箱根にある神社。旧国幣小社。祭神は箱根大神と称し,瓊瓊杵尊・木花咲耶姫命・彦火火出見尊の3神とされている。箱根は「筥根」とも書いた。一般に箱根権現と呼ばれる。建久2年7月25日奥書の「筥根山縁起并序」(群書2)によれば,孝昭天皇の時,聖占仙人が駒ケ岳を祭場として「神仙宮」を開創したのに始まるという。その後利行丈人が,当地に堂1宇を建立。また武内宿禰は三韓進攻の後,日本国に「異朝大神」を勧請して,天下安寧を祈願するよう奏請し,「高麗大神」を当地に勧請したとしている。当社は東海道の関東への入り口箱根山の要衝を占める神として,後世まで絶大な威力を誇っていた。古くは般若寺と号した。武内宿禰の後,玄利老人が般若寺を東福寺と改称,さらに芦ノ湖中の小島に寺堂を建立して補陀落山と名づけた。東福寺の寺号は,現存する文永5年と弘安7年銘の2口の湯釜に銘記され(箱根町誌1),明治維新で廃寺となるまで続いていた。聖占・利行・玄利の後,天平宝字元年,万巻上人は箱根大神3神の夢告を受けてこれを天皇に奏上。勅許をもって神殿・寺院を造営し,この時駒形・能善の2神を主神の左右に配して五所としたという(筥根山縁起并序)。万巻上人は満願とも書き,常陸国鹿島神宮の神宮寺や伊勢国多度神社神宮寺を開創したことでも知られる。後世,当社および当山の開創は万巻とされ,東福寺第1世も彼に当てられている。当社蔵の万巻上人坐像は平安初期の作(国重文)。「筥根山縁起并序」によれば,弘仁8年10月,勅によって駿・豆・相の3国が当社に寄せられ,また鳥羽上皇は相模国酒輪(酒匂)郷48町を当社に寄進した。以上の由緒にもかかわらず,当社の現在までの史料上の初見は比較的新しく,平安期の「相模集」に,相模が当社に100首の和歌を2度奉納したことが見えているのみである。当社が歴史上重要な役割を果たすようになるのは鎌倉期になってからである。治承4年8月18日,戦乱のため仏事を勤行できない源頼朝に代わり,伊豆山の尼法音に命じて般若心経を読ましめたが,その目録中に「大筥根・能善・駒形」の箱根の神があげられている(吾妻鏡)。これより数日後の8月24日,平氏追討に挙兵した頼朝は,石橋山の合戦に敗れて伊豆山中に逃げ込んだ。この時,筥根山別当行実とその弟僧永実が,当社にかくまい助けている。頼朝は同年10月に鎌倉入りをすると,いちはやく行実に下文を遣わし,相模国早河荘を箱根権現に寄進し,行実の知行とさせている(同前治承4年10月16日条)。行実は「筥根山縁起并序」の編者で,同縁起によれば,長寛2年5月16日に箱根山の根本中堂を建立し,箱根三所霊壇,能善・駒形の神殿を再興し,中世箱根神社および東福寺の基礎を作った。頼朝も開幕まもない文治元年12月に,社殿・寺院の興隆に力を貸したという。「吾妻鏡」には,二所詣(当社と伊豆走湯権現)への将軍家参詣の記事が数多く登場する。ただし多くの場合三島社を加えた3社に参詣している。頼朝がはじめて二所詣を催したのは,「吾妻鏡」によれば文治4年正月18日。二所詣は,その後,正月下旬から2月初旬にかけての鎌倉将軍家恒例の行事となっていった。「貞永式目」の後付「幕府評定衆起請文」に「別伊豆・筥根両所権現,三島大明神」として格別の扱いを受けているのも,名実ともに武家の守護神となっていたことを示すものといえよう。安貞2年10月18日,万巻上人(吾妻鏡には万月とあるが誤り)開創以来「五百余歳」の間,1度も回禄したことのなかった当社が焼亡した。執権北条泰時の努力で,翌月28日には上棟,12月28日には早くも遷宮の儀が行われている。再造された社殿・寺院の壮大さは,これより10数年後の仁治3年に成立した「東関紀行」に「朱楼紫殿の雲に重なる粧ひ,唐家の驪山宮かと驚かれ」るほどであったのでも知られる(群書18)。鎌倉幕府の滅亡とともに当社も一時勢いを失ったようにもみえるが,その後,小田原北条氏の崇敬を受けるようになった。永正16年4月28日付宗瑞伊勢長氏(北条早雲)箱根領注文(箱根神社文書/県史資3下‐6539)によれば,相模・伊豆を中心に上総・武蔵を含めた合計4,465貫文余の地が箱根領となっている。当時の別当が,北条氏一族の菊寿丸(早雲の子)であったことも重要である。大永3年6月12日には,北条氏綱を大檀那とし,別当海実(菊寿丸)が中心となって「相州西富郡足柄郷筥根山東福寺三所権現」の宝殿が造営されている(箱根神社文書/県史資3下‐6573)。棟札には,当社殿は北条時頼再建以来およそ300年間再建されたことがなく,「相州故太守早雲寺殿」も望んでいたが果たせなかった再建を行ったとある。小田原北条氏にとって,当社は鎌倉期北条氏の由緒を引く神社として,大きな意味を持っていたのであろう。ただし,「役帳」には,中郡船子内・西郡酒匂内・中郡吉沢内に合わせて50余貫文が箱根領で,菊寿丸の退院後は,先の多くの社領が菊寿丸(当時幻庵と称する)に付せられ,当社とは離れた。天正18年の小田原北条氏滅亡の時,兵火にかかって社寺が灰燼に帰した(新編相模)。文禄3年に豊臣秀吉によって社領200石に定められ,慶長17年11月13日に徳川家康を大檀那として,宝殿と拝殿が再建された(棟札/同前)。その後の再建は寛文7年9月と元禄10年5月(同前)。東福寺は,近世には古義真言宗に属したが,明治期の神仏分離で廃寺となり,寺宝類は一部当社に残されたものの,多くが散逸した。現在当社に所蔵されているもののうち,赤木柄短刀(鎌倉期作)・木造万巻上人坐像(平安期作)・紙本著色箱根権現縁起絵巻(鎌倉期作)などが国重文。そのほか,文永5年と弘安年間銘の鉄釜がある(県重文)。明治元年の神仏分離の時に箱根神社と改称し,明治6年に県社,昭和3年には国幣小社に列した。




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「角川日本地名大辞典」
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