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八菅神社
【はすげじんじゃ】


愛甲(あいこう)郡愛川町八菅山にある神社。旧郷社。祭神は,本殿には国常立命ほか6神,北社には伊弉那岐尊・金山彦命・誉田別命ほか6神,南社には伊弉那美尊・大己貴命・天忍穂耳尊ほか6神を祀る。近世以前は七社権現と呼ばれた。八菅山は古くから修験の道場で,当社は別当八菅山寺とともに,この地方有数の霊場となっていた。社伝によると,日本武尊が東国平定の折に,この山の頂に立って山の形を見,蛇形山と名付けたのが,その後八菅山となったという。大宝3年に役行者が入山修行したが,その時天空より玉幡一流が降り8本の白菅が突如地中から生え出たので,寺を八菅寺と称するようになったという。「新編相模」には八菅山権現,七社権現社と称し,社殿は,中央を証誠殿,左右に各3社あるといい,この祭神はほぼ現在と同じで,各々にその本地が記されている。同書に引用する「顛末秘蔵記」には,大宝3年に役行者が37日の修法を行った折,天人が天降って行者を守護したという。その後,行基は神々を勧請し和銅2年には神体および本地仏を彫刻して安置し,一山の伽藍を建立,整備したという。また同書は応永26年社寺再興に際しての勧進帳も載せている。それには,行基は釈迦・阿弥陀・薬師三仏を造立し,その後,海老名季貞が大日如来を安置したと見える。室町期には将軍足利尊氏が社殿を再興し,同じ頃祖師堂の行基像を造立したとして,その胎内銘を引用している。応永26年正月日付の勧進帳写も現存し,奥書の「左兵衛督源朝臣」は足利持氏とされている(相文/県史資3上‐5585)。永正2年に兵火のため社頭は焼失したが,同4年に仮造営し,天文10年には再興された。同年11月27日の棟札には「奉造営八菅山大権現精舎一宇」として「当地頭内藤九郎五郎,藤原朝臣康行代官志村越前守平朝臣昌瑞」の名や,「大檀那遠山甲斐守藤原朝臣綱景」と見える。天正19年には徳川氏により社領6石6斗の朱印地が与えられ,また八菅山内方8町は不入の地とされたという(記略)。八菅山内にはいたるところに行場・霊地があり,「新編相模」にも左眼池・右眼池あるいは堂庭・幡幡之坂・神酒園などの地名や,大山寺衆徒と論議をしたと伝える経論窪,回峰修行の地である駆抜久保などがあった。下川入郷5村の鎮守として,またそれ以前には上川入郷を含む川入郷全域の鎮守として信仰を集めていたであろう。別当光勝寺は八菅山と号し,古くは八菅山寺と称したという。本山派修験で,「本坊脇坊候人等,都而五十二坊」あったが,近世末にはそのうちの19坊が廃されていた(新編相模)。社伝によれば,貞享4年本社再興の時は,武蔵・相模2国の勧進を幕府より免許されたという。明治維新の際,山中の修験者は全て帰農し,八菅神社と改称して仏教色を改め,明治6年には郷社に列した。宝物は数多く,特に近世の修験関係の文書は貴重。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7068504