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平塚教会
【ひらつかきょうかい】


平塚市見附町にある日本基督教団所属のプロテスタントキリスト教会。旧日本美普教会派。米国メソヂストプロテスタント教会の伝道は,明治13年に婦人宣教師ミス・ブリアンが来日して以来,横浜のブリテン女学校(現成美学園)と横浜第一美普教会(現横浜本牧教会)・横浜第二美普教会(現蒔田教会)を中心に,県下の伊勢原・平塚・茅ケ崎へと展開された。横浜第二美普教会伝道師水野重吉は,明治37年に伊勢原に講義所を設立(現伊勢原教会)。明治40年4月に受洗し,伊勢原講義所の求道者となった市川儀三郎宅では,毎日曜に日曜子供集会が開催された。郡立農学校(現県立平塚農業高校)教員の間でも集会が始められ,美普教会の伝道師・福音士が伊勢原講義所の応援を得て平塚伝道を展開。明治42年,平塚町本宿に「日本美普教会平塚講義所」設置。大正元年に講義所を新宿に移転するとともに「平塚英語塾」を開設。この頃,のちに平塚海軍火薬廠となるアームストロング社平塚工場の技師,スコットランド人マクライモンドは各種諸集会を熱心に支援した。大正3年より茅ケ崎南湖病院への伝道を開始。大正5年3月,日本美普教会年会で「平塚美普教会」と承認された(会員35名)。大正7年に教会の婦人会員を中心に,日本婦人矯風会平塚支部(昭和4年に独立し,平塚婦人矯風会)を設立。大正8年前後頃は,日本基督教会に属する波多野貞夫(第2代平塚海軍火薬廠長,のち海軍中将)が火薬廠に着任,教会に協力した。火薬廠や製糸工場純水館での職域伝道,南湖病院や杏雲堂への訪問伝道が展開され,教勢が上昇した。大正13年,二葉幼稚園設立。翌14年より金田村寺田縄(市内寺田縄)を中心に入野・長持ら近隣農村への伝道がさかんとなる。昭和5年,日本基督平塚富士見町教会の誕生で波多野貞夫をはじめ日基系会員転籍。昭和8年に新会堂竣工。昭和初頭は「神の国」運動や禁酒運動に積極的にとりくむ。平塚婦人矯風会・平塚富士見町教会との共催で時局講演会を催すなど社会教育に尽力。昭和16年,日本基督教団の成立に参加,「日本基督教団平塚教会」と改称。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7068753