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平塚八幡宮
【ひらつかはちまんぐう】


平塚市浅間町にある神社。旧県社。祭神は応神天皇・神功皇后・武内宿禰命。古くは鶴峰山八幡宮・八幡宮と称した。俗に相模国五の宮とも称されたらしい(地名辞書)。寛永14年4月の平塚新宿八幡宮之記(県史資8下)によれば,聖武天皇の神亀年間に宇佐八幡宮を勧請したとも,仁徳天皇68年の地震で被害が激しかったので,社殿を建て八幡大神を祀ったとも伝え,創祀については未詳。「吾妻鏡」建久3年8月9日条にみえる,源頼朝が政子の安産祈願のために神馬を奉納した八幡宮は当社のことと考えられる。また四の宮前取大明神の次に記されていることから,五の宮の社格を有していたらしい。文明18年には聖護院道興准后が参詣し和歌を詠んでいる(廻国雑記/群書18)。弘治2年,北条氏康と武田信玄が戦ったさい戦火をうけ社殿が焼失した。当社付近は永禄4年,上杉謙信が北条氏康を攻めたときにも上杉方の陣所となっている(甲陽軍鑑)。天正19年11月に徳川家康から八幡郷内に50石の社領が与えられ,近世期も八幡庄内に同額が給された(記略・寛文朱印留)。慶長年間には徳川家康が参詣し,社殿を再建したと伝える。近世期には平塚新宿・八幡・馬入の3か村の鎮守。社領50石のうち26石5斗は別当等覚院に配当されていた(新編相模)。等覚院は鶴峯山成事智寺と号し関東古義真言檀林三十四か院の1つ(記略・本末帳集成)。近世の社地の様子は,東海道の北側に銅鳥居があり,ここから先が表参道,170間ばかり入って小橋を渡りさらに少しいくと池があり,その先の仁王門を経て石段を少し登ると社前へでた(新編相模)。明治維新で等覚院を廃し,明治6年7月郷社に列格。大正12年の関東大震災により社殿倒壊,昭和3年に再建された。同15年12月県社に列し,同53年8月に現社名に改称。例祭は8月15日。近世期には12月25日に表参道から東海道にかけて市が立った(同前)。現在は5月5日の国府祭に当社も参加する。平塚市全域を氏子区域とする。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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