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松原神社
【まつばらじんじゃ】


小田原市本町2丁目にある神社。旧県社。祭神は日本武尊・素盞嗚命・宇迦之魂命。創祀は未詳だが,「新編相模」によれば,後醍醐天皇の頃この地の森に鶴が住んでいたことから鶴森明神と号していたという。また天文年中に山王原村の海中から金仏の十一面観音が出現し,その託宣に任せて当社内に移して本地仏として以来,社名を松原明神に改めた。別当玉滝坊は鶴松山玉流寺成就院と号し,当社の供僧西光院は松原山南勝寺と称する真言宗系寺院で,やはり氏綱が天文年中に箱根芦ノ湖室河津にあった西光院を移したのに始まるという(新編相模)。天文年間以降小田原北条氏は当社および玉滝坊・西光院に社・寺領を度々寄進している。天文8年7月29日,氏綱は伊良窪の20貫文の地を「松原大明神社中,供僧西光院」に寄進(蓮上院文書/県史資3下‐6719),氏康は同11年4月28日には河原新田の10貫文の地を当社修理料として玉滝坊に寄進した(新編相模/同前6756)。同14年春,武蔵国川越城が古河公方足利晴氏と上杉憲政によって攻撃を受けた際,氏康は「当所松原大明神宮寺」において戦勝祈願の護摩を修せしめた(北条五代記)。「役帳」には「小田原松原大明神領 三十三貫二百文 西郡伊羅窪分 西光院抱」と見える。元亀3年5月16日の北条家朱印状には当社中の掃除に関して厳しく規定している。それによれば「自干橋船方村迄宿中之者」100余人に,毎月小田原城惣曲輪掃除の日に当社中を清掃せしめ,西光院と玉滝坊にこれを奉行せしめている(蓮上院文書/県史資3下‐8123)。その後も社中掃除については小田原北条氏が度々命令を下しており,当社が小田原城と深くかかわりながら,小田原北条氏の祈祷所として厚遇されていたことがわかる。天正18年に小田原城が陥落したのちも,小田原宿内19町の惣鎮守とされ,領主稲葉氏・大久保氏の崇敬を受けた。社殿も代々の領主によって修造されていたといわれる(新編相模)。明治初年の神仏分離で玉滝坊は廃絶し,西光院は独立。明治6年に県社に列した。大正12年の関東大震災の時に社殿を焼失したが,昭和6年に現社殿を造営した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7069059