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丸山教本部
【まるやまきょうほんぶ】


川崎市多摩区登戸に所在。創始者(教祖)は伊藤六郎兵衛(文政12年~明治27年)。崇拝対象は「大元の親神」(元の父母),教典は教祖真蹟「おしらべ」である。伊藤六郎兵衛は文政12年に武蔵国橘樹(たちばな)郡登戸村富士塚の自作農清宮家に生まれ,24歳で伊藤家に婿入りした。生来病弱で,富士講の修行に参加していた。明治3年,妻サノの大病がきっかけで,不動行者に祈祷をしてもらい,そのお礼を神「仙元大ぼさつ」に述べたところ,神より「地の神一心行者」と称することを許され,神の声を聞くようになった。この年が丸山教立教年とされている。その後食行・水行・無言の行などに励み,しだいに生き神行者として知られるようになり,身祓を受ける者が多くなった。教導職の資格がないため明治6年,7年と2度警察に拘引された。丸山教活動の合法化のために富士一山講社に加入し,大先達・教導職試補の資格を得た。明治7年には教勢約300戸であったが,明治13年約10万人,明治25年約138万人と明治10年代から20年代にかけて激増していった。その地域的範囲は神奈川県・静岡県・東京府・長野県(伊那地方)・愛知県(三河地方)・群馬県など関東・東海・中部地方が中心。富士一山講社は明治15年に扶桑教として独立したため,丸山教は扶桑教に属していたが,明治18年に分離し,神道本局に転属し,神道丸山教本院と称した。昭和21年に丸山教として一派独立。伊藤六郎兵衛の教えは明治20年から27年までの8年間にわたり記した「おしらべ」に表されている。それに人間は「元の父母」から生を授けられ,一分の心をたんせいし,人間の本性に帰るために「天明海天」を唱え,明るく和合して,通俗道徳を守れば,天下泰平・五穀成就・金銀が満ちあふれる理想郷「日の出に松の御代」が到来するという「メシア的世界観」をもっていた。そして「文明は人倒し」と述べ,文明開化の世を批判し,明治14年の松方デフレ政策で困窮にあえぐ農民層に「貧富平等,財産均分」の理想世界の到来を約束した。明治17年から20年にわたって静岡県庵原郡の西ケ谷平四郎の率いる「み組」は「貧富平等の御仕法」が行われ,丸山教の世となると宣伝し,西ケ谷騒動を引きおこした。明治10年代にこうした世なおしを唱えて教勢を伸ばした丸山教は,各地で官憲の強い規制をうけたこともあり,伊藤六郎兵衛の死後急速におとろえていった。昭和57年の教勢は教会数71,教師数757人,信者数1万330人(文化庁:宗教年鑑)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7069087