100辞書・辞典一括検索

JLogos

26

御輿ケ岳
【みこしがだけ】


鎌倉市長谷付近の山名。見越岳(嵩)とも書く。この山の比定については2説あり,一説に長谷甘縄神明社の背後の山をさし,別名神明山という。「攬勝考」は「大仏より東の山をいふ。此辺の高山なり……大仏を見越すといふこと歟」といい,「残稿」長谷村の項は「本村中央ニアリ,最高キ処二十許丈,山脈,東ハ長楽寺山ニ連り,三方ハ田圃エ臨ミ,松杉及雑樹蕃叢ス,登路アレトモ樵者ノ小径ノミ」と伝える。また一説には鎌倉大仏の背後の山並みをいい,海岸に接する所を御輿ケ崎とする。「新編相模」は「御輿岳は,大仏の後の山岳より連延して,霊山崎に至る迄の畳嶂(じようしよう)(重なった山),数百歩の間を総て称し,其山陬(すみ)海岸に接する処を御輿崎と云へるなり」と記している。御輿ケ岳(崎)は古くから鎌倉の名所であったらしく,しばしば歌に詠まれている。「万葉集」巻14(東歌相聞)に「鎌倉の見越の崎の石崩(いはくえ)の君が悔ゆべき心はもたじ」とみえ,平安期の百首歌である「堀河院御時百首和歌」(雑二十首)にも左京大夫顕仲の歌「かまくらやみこしかたけに雪消てみなの瀬川に水まさるなり」がある。また宗尊親王の「瓊玉和歌集」巻4(秋歌上)には「都にははや吹ぬらしかまくらのみこしか崎の秋のはつ風」とある。下って江戸期の万治2年に澄月がまとめた「歌枕名寄」にも「東路の路(みち)の長路を尋ねきて御輿の崎に心とまれり」と詠まれている。これらのことから,北村季吟の「万葉拾穂抄」は「見越崎は稲村崎なり」といいきり,大野重増の「鎌倉根元記」は,御輿ケ岳(崎)は「稲村崎,霊山崎を云にや」という見解をのべている。左京大夫顕仲の歌にみえる「みなの瀬川」が現在の稲瀬(いなせ)川とすれば,水源となる御輿ケ岳は大仏背後の山並みとする説が妥当と思われるので,御輿ケ崎は稲村ケ崎や霊山ケ崎の古称であった可能性がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7069114