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六所神社
【ろくしょじんじゃ】


中郡大磯町国府本郷にある神社。旧郷社。祭神は櫛稲田姫命・素盞男命。相模国総社。古くは柳田大神と称した(新編相模)。社伝は,崇神天皇の時出雲国より柳田氏が勧請し,のち国府がこの地に営まれるに及んで,近くにあった当社に相模国一の宮・二の宮・三の宮・四の宮および平塚新宿の八幡宮(平塚市浅間町,平塚八幡宮)が合わせ祀られ,当社祭神を含めて六所神社と称したという。「吾妻鏡」治承4年10月16日条に「相模国六所宮」と見え,建久3年8月9日条には「総社柳田」と見える。柳田は鎮座地の名称。天文13年12月23日に小田原北条氏は「相州六所領」を65貫余と定めるが,その中には「六貫文 在庁四人〈各一貫五百文充〉」と見え,戦国期においても国府在庁と関係を有していたことがわかる(相文/県史資3下‐6791)。同状には「卅貫五百三文〈卯年増分〉御造営方」とあり,小田原北条氏が社殿造営についても深く関与していたことを示している。「役帳」には「一 相州六所領 六拾五貫七十八文〈中郡国府生沢ニ伏〉」と見え,永禄2年の時にも社領はほぼ同額であった。小田原市久野の総世寺(曹洞宗)梵鐘は応永15年の銘を有する(ただし永禄元年の再鋳か)が,その銘文冒頭に「相模邦惣社柳田野六所宮」とあって,もとは当社の鐘であった(日本古鐘銘集成)。近世の別当真勝寺は,相府山遍照王院と号し古義真言宗。ほかに供僧4院があり,神主は近藤因幡であった。徳川家康は天正19年11月日に国府のうち50石を朱印社領とし,以後近世を通じて同石であった(記略・寛文朱印留)。近世には国府本郷以下周辺4か村の鎮守。明治6年郷社に列格。毎年5月5日に行われる国府祭(県無形民俗文化財)は有名で,境内近くの神揃(かみそり)山に一の宮以下合祭の5社の神輿が集合する。特に一の宮と二の宮が席次を争う座問答は注目される(民俗芸能誌)。「新編相模」に「此祭事は,養老年間に始む」との伝承を記す。




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「角川日本地名大辞典」
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