金屋
【かなや】

旧国名:越後
荒川と乙大日川(旧胎内川)に挟まれた沖積地。氏神八幡宮は天喜年間源義家の勧請と伝える。嘉元2年7月18日の左衛門尉宗経・同盛房連署請文写によると,河村秀久と同景秀の間で争われた田地の所在を,秀久は「魪淵内」と主張している(山形大中条文書)。この魪淵とは,万治2年の金屋村本田新田検地帳(荒川町史資料編1)に見える「助淵」のことで,前出の請文写にあらわれる馬場とともに金屋村のうちに属した。元亨3年8月7日,河村秀久は松山表分,南俣,助淵を嫡子政秀と次男秀遠に譲与した(反町河村文書)。前出万治2年の金屋村本田新田検地帳に助淵とともに松山・北又の字名がみられるので,鎌倉・南北朝期に荒河保内の所領としてあらわれる松山・南俣は金屋村に属していたと考えられる。
【金屋村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【金屋村(近代)】 明治22年~昭和29年の岩船郡の自治体名。
【金屋(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7071790 |





