関東町
【かんとうまち】

旧国名:越後
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は長岡城下の1町。明治初年~明治43年は長岡を冠称。神田口御門近く,幅5間半の北国街道が中央に通じていた。地名は,牧野氏が上野国大胡から長岡に移ったとき,大胡を中心に関東地方から来た商人や職人を住まわせたことにちなむ。江戸中期の家数は北国街道の東側に12軒,西側に10軒(延宝年中図),安政年間には,東側が10軒,西側が14軒(長岡城並ニ町割絵図)。戊辰戦争では今町方面と相対することから激戦地となり,ほとんどが焼失。明治末期に大火にあい町のほとんどが焼け,復旧の際,町中を貫く道を大拡幅し,その後の長岡市の道路整備のモデルとなった。明治22年長岡町,同39年からは長岡市に所属。大正9年の人口437,昭和9年の世帯数75・人口415。明治43年長岡長町の一部を編入,昭和38年東坂之上町1~2丁目・玉蔵院町・呉服町の各一部を編入。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7072362 |