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豊田荘
【とよだのしょう】


旧国名:越後

(中世)平安末期~戦国期に見える荘園名。越後国蒲原郡のうち。東大寺領。平安末期に東大寺が損亡した石井・土井荘の復興を申請したところ,越後国司は両荘を収公し,その代替地として加地郷に東大寺領豊田荘を設定した(東大寺文書永治2年3月25日付越後国留守所牒)。保延7年5月3日の越後国留守所下文(東南院文書)に「東大寺御領豊田庄本免田拾伍町」と見える。安元元年8月7日の東大寺領荘荘文書請文(早稲田大学所蔵文書)によれば,豊田荘については「長承四年立券状」「紙絵図一禎 長承四年」が存在したところから,長承4年成立と考えられる。この立替えに関しては,長承から久安にわたる10余年の係争が続いた。当荘の開発に桓武平氏の流れをくみ,出羽城介に由来する城氏が関係していたことは,桓武平氏諸流系図(中条家文書)の城家成の名に「豊田二郎」の通称が付記されていることから推察される。建保2年5月の東大寺領諸荘田数所当等注進状(東大寺続要録/鎌遺2107)には,同荘の四至・田積などが記され,それによれば「東限佐々木河 南限鹿子岡 西限下御方 北限佐々木河」「合田三百町 見作田三十五町 田代二百六十四町八段 在家 山野二千余町」とある。荘域は太田川以南の,現豊浦町全域と新発田市南端部の旧松浦村を含み(新発田市史上),太田川を挟んで加地荘,笹神村以南の白河荘と境を接する。なお,当荘は「号加地庄」とも見えるが,東大寺関係の文書に限られるので,北に隣接する金剛院領加地荘とは別。城氏滅亡後,その遺領には鎌倉幕府御家人が地頭に任命されるが,同荘地頭としては開瀬五郎義盛の名が見える(江藤文書建仁2年6月近江日吉社大津神人等解/鎌遺1309)。「吾妻鏡」文治元年10月24日条などに源頼朝の随兵として見える関瀬修理亮義盛と同一人と思われる。承久元年4月日の後鳥羽院庁下文案によれば,地頭が寺務を押領するため豊田荘などが東南院に付され(東大寺具書/鎌遺2509),承久3年7月27日にも当荘など東大寺領荘園に対する武士の狼藉停止の官宣旨が下されている(東大寺要録2/同前2787)。天福元年8月28日の東大寺宛行状案によれば,当荘はさしたる恒例役もなく,近来は「手掻会相撲禄,并俗衣布合陸拾段」を毎年弁進していたが,今年はその役も欠如したところ,東南院の当荘を賜って役を勤仕するとの申出により,当荘は東南院に宛行われ(東大寺文書/同前4552),以後当荘は東南院領として相伝された。南北朝期に入り,建武2年12月23日には「豊田庄鴻巣合戦」があり(反町大見水原文書),永和3年11月22日「豊田庄本随(陀)条内飯塚并中目島倉分」が和田(中条)茂資に打渡されている(山形大中条文書)。一方,貞治6年10月14日幕府は守護上杉憲顕に対して,加治荘地頭佐々木氏の豊田荘への押領を停止し,下地を寺家に交付するよう命じている(東大寺文書/大日料6‐28)。室町期から戦国期にかけて,当荘には中条氏領のほか,大見水原氏領の「西光寺牧目村地頭職」・本田村(反町大見水原文書),大見安田氏領の松岡村(反町大見安田文書)などが見える。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7075962