100辞書・辞典一括検索

JLogos

41

村上藩
【むらかみはん】


旧国名:越後

(近世)江戸期の藩名。岩船郡村上に居城を置く。慶長3年春日山藩主堀秀治の与力として村上頼勝(外様)が加賀国小松から9万石で入封して成立した。領地は岩船郡全域と蒲原郡(北蒲原・中蒲原・南蒲原)の一部。当時城下は本荘町と称していた。頼勝は臥牛山城(村上要害)と山麓の居館の整備,侍屋敷町と城下町の拡張を行った。また,360歩1反の検地を行っているが,検地帳は伝わっていない。元和4年2代忠勝は家中不取締りの故で除封,代わって越後長岡から堀直竒(外様)が10万石で入った。領地は前代と同じ。引き続いて城郭の整備と城町の拡張があり,改めて300歩1反の検地が行われた。直竒は沼金山(関川村)や蒲萄鉱山(関川村)の開発に努めたが,城郭の拡張整備や江戸在勤が長期に及んだため借財が多く,寛永12年に幕府から2万5,000両を借用した。同16年直竒が没した後,幕府は高直しをし,孫直定に村上城と10万石,次男直時に3万石を与え,直時は安田藩を創立した。城下本荘町が村上と改まったのはこの頃と考えられる。直定は同19年7歳で没し,嗣子なく家断絶,領地は幕府に収められて出雲崎代官の支配となった。正保元年本多忠義(譜代)が10万石で遠江国掛川から入封し,堀直定の旧領を所領とした。本多氏は慶安2年陸奥国白河へ移され,播磨国姫路から松平直矩(親藩)が15万石で入封,領地は蒲原郡(中蒲原・西蒲原・南蒲原)と三島(さんとう)郡の内から加えられた。この時から三条町に代官所(陣屋)を設け,この地方の支配に当らせた。直矩は明暦4年から6尺3寸1間の竿で領内全村の検地を行った。「寛文朱印留」によれば,藩領は,岩船郡一円342村・高5万3,195石余,蒲原郡のうち504村・高8万5,735石余,三島郡のうち62村・高1万1,068石余。寛文7年直矩は旧地姫路に戻され,同地から榊原政倫が入封した(親藩)。同年山城の天主三層櫓は落雷により焼失,以後再建されることはなかった。この時代の所領は岩船郡236村,蒲原郡410村・三島郡45村の計691村,実高は21万6,683石余であった。宝永元年5月榊原政辰(政邦)が姫路に移され,本多忠孝が15万石で同地から入封した。しかし,忠孝は同6年12歳で没し,家嗣がないため家断絶,封地は収公されるべきところ,特に家柄の故をもって分家本多忠英の子忠隆(忠良)に家を継がせ,村上城と5万石(181村)を賜り,10万石の地は幕府に収められた。これによって士分216人・足軽214人に暇が出た。忠良は翌7年三河国刈谷へ転じ,代わって松平輝貞(譜代)が7万2,000石で入り,前代に幕府領となった村々のうち岩船郡・蒲原郡の一部が村上領に戻った。この時蒲原郡85か村の百姓が燕組太田村三上兵郷を頭取として,幕府領編入を老中井上河内守に駕籠訴する百姓一揆が起こっている。享保2年輝貞は旧地高崎に移され,間部詮房(譜代)が5万石で高崎から入封した。このため,再び一部の村々が藩領を離れ,残ったのは岩船郡81村・蒲原郡83村・三島郡24村の計188村であった。詮房は同5年村上城で没し,養嗣子詮言は家を嗣ぐと同時に越前国西鯖江へ移された。代わって村上城主となったのは内藤弌信(譜代)で,以後明治維新まで信輝・信興・信旭・信凭・信敦・信思・信民・信美と9代にわたって内藤氏の支配が存続することになる。所領は5万90石余で,詮房の遺領に蒲原花見新田90石余を加えた村々からなる。享保13年村々高辻帳によると,岩船郡では村上町・瀬波町をはじめ,小口川組に小口川・新飯田・八日市・岩船町・新保・長松・七湊・下助淵・三日市・高御堂・潟端・大塚・今宿・九日市・塩谷の15村,殿岡組に殿岡・指合・下有明・小出・中束・中・宮前・上有明・里本庄・上助淵・山屋・志田平・松山・浜新田・蛇喰の15村,日下組に日下村・中間町・興屋・坪根・下相川・上相川・小谷・大葉(場)沢・鋳物師・菅名・赤沢・門前・大栗田・大関・下山田・上山田・山辺里・天神岡・四日市の19村,新保組に新保・上中島・水野・小揚・岩崩・茎田(太)・千縄・布部・三面・猿田・柳生戸・笹平・古渡路・小川・十川・興屋の16村,上海浦組に下渡・羽下淵・岩ケ崎・間島・柏尾の5村,五島組に板屋沢・上大蔵・長坂・遠矢崎・立島・鵜泊・寝屋・下大蔵・下大鳥の9村,岩船郡合計81村・高2万825石余,蒲原郡では三条組に三条町・四日町・三竹・中新・籠場・東大崎・上野原・柳沢・牛ケ島・三柳・西潟・敦田・谷地・石上・栗林・下須頃(比)・上須頃(比)・井土巻・八王寺・柳山・杉名・杉柳・蔵関・大関・小関・田中新の26村,地蔵堂組に地蔵堂町・大武新田・渡辺(部)・国上・真木山・泉新・中島・牧ケ花・新堀・佐善・溝・溝古新の12村,燕組に燕町・三王淵・長渡・長池新・国見・大曽根・今井・勘新・小古津新・小中川・船越・中・六分・長場・潟浦新・下児木・上児木・次新・中川・小牧の各町村および道上村の内の21村,茨曽根組に茨曽根・茨新・西萱場・東萱場・大別当・針ケ曽根・三門新・長島・釣寄新・木滑・井随・上大原・下大原・番屋・茨島の15村,味方組に味方・白根・板井・木場・黒鳥・亀貝・小新・桃崎浜の各村および花見新田の内の9か村,蒲原郡合計83村・高4万5,798石余,三島(さんとう)郡では山田・松田・茗ケ谷・島崎・木島・下桐・鰐口・硲田・川崎新・下曽根新・本山新・弁才天新・京ケ入新・蛇塚新・中曽根新・新庄・長新・敦ケ曽根・平野新村新田・五分一・上桐・門新・黒鳥・竹森・小豆曽根の25か村・高7,732石余,総計189村・高7万5,356石余ある(県史資料編8)。「旧高旧領」での藩領は,岩船郡81村・2万4,553石余,北蒲原郡1村・32石余,中蒲原郡3村・4,484石余,西蒲原郡62村・3万7,370石余,南蒲原郡17村・7,137石余,三島郡30村・8,586石余の合計194村・8万2,164石余(県史研究15)。明治元年の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり,新政府軍により城を焼かれ,同年8月越後府村上民政局が設置された。同2年6月24日藩主内藤信美は版籍を奉還し,村上藩知事となった。翌3年7月新潟県を中心とした大規模な支配替えが実施されたため,三条陣屋管内の村々は藩領を離れ(この上地高は5万4,318石を数え,その比率は70%にも及ぶ),これに代わって岩船郡内の139村が藩領に入った。明治4年7月14日廃藩置県により村上県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7078638