城端
【じょうはな】

旧国名:越中
礪波(となみ)平野の東南部の山裾に近い段丘地に位置する。地名の由来は,戦国期に荒木大膳の居城の前端に,城下町として開けたことによって名づけられた。なお、地名の文字は,当初,城ケ端(じようがはな)と記されていた。時には尉之鼻の文字を当てていた(和漢三才図会)。元禄15年から正徳の頃まで,加賀藩の御算用場の命により,城ケ端村と唱えたこともあったが(越中志徴),一般には城端町と呼ばれていた。なお,この町並みの特徴は,段丘上にできたので坂の多いことと,中世の城下町の面影を残して町通りが一直線に突き抜けていないこと。それに,町高が,明治4年に金沢藩庁の町村分合の指令により野田村と理休(りきゆう)村の一部を併合したときも,昭和27年に城端町と南山田・大鋸屋(おおがや)・蓑谷(みのたに)・北野の4か村が合併したときも,一貫して城端町名を継承したことである。
【城端里(中世)】 戦国期に見える地名。
【城端町(近世)】 江戸期~明治22年の町名。
【城端町(近代)】 明治22年~現在の町名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7081988 |





