富山藩
【とやまはん】

旧国名:越中
(近世)江戸期の藩名。寛永16年加賀3代藩主前田利常が加賀国小松(こまつ)に隠退する際,次子利次を富山に分封,越中国婦負(ねい)・新川(にいかわ)両郡と加賀国能美(のみ)郡のうちにおいて,10万石を分封して立藩。利次は翌年加賀藩領新川郡にあった富山城を借りてそこに移り,正保2年までの間に家臣・町方・寺社方・郡方に対して次々と法令を制定した。農政も利常の改作法に準じて行い,慶安4年に婦負郡を検地(県史近世下),承応4年には領内一斉に村御印を交付した。万治2年宗藩に願い出ていた領替えが許され,分散していた領地は婦負郡一円180か村6万2,851石と新川郡のうち富山近郷の73か村3万7,149石にまとめられ,10万石の領地が確定した。新たに富山領となった新川郡においては,加賀藩下付の明暦2年の村御印を用いた。利次はこの頃から百塚(ひやくつか)築城を断念し富山居城を希望していたが,万治3年許され富山町奉行を置き,翌寛文元年より城の改修と富山町の整備にとりかかった。町割をなし,侍町・寺町・商人町を作った。また未墾地の開拓を強力に進め,特に牛ケ首(うしがくび)用水新江(しんえ)の完成後は,婦負郡北部の新開を始め,奥田新村(おくだしんそん)・杉原野(すぎはらの)・外輪野(そとわの)・古沢野(ふるさわの)と開発・村立てが進み,元禄11年には古田13万1,112石余・新田高7,770石余で,56の新村を含め507か村を数えた(県史近世下)。すでに正保3年の富山藩領有高は新田高を含め実際には12万6,500石を超えていたが(同前),寛文7年には総高13万8,456石,488か村で,百姓数5,057・人数4万3,083・牛馬数4,522匹(同前)となっている。各村には肝煎・組合頭・長百姓をおき,郡奉行は五カ村組(吟味人をおく)・十村(とむら)組(十村が統轄した)を通じて農民を支配した。農民の納める年貢米は,給人飯米を除き御蔵(赤(あか)蔵・千石(せんごく)町蔵・木町(きまち)蔵・愛宕(あたご)蔵・西岩瀬(にしいわせ)蔵・四方(よかた)蔵・八尾(やつお)宿の近在奥田村・大杉村にあった)と町蔵に納められたが,蔵米の一部は西岩瀬や四方に集められ,大坂へ回送して売却された。寛文6年の藩の実収入米は2万8,600石余となったが,同7年の廻米高は1万5,000石に達した。廻米量は藩政期を通じて年に1万~1万5,000石であり,運送は大坂や加賀藩領からの雇船によったが,幕末には藩の御手船にあたらせた。このほかに年間5,000石の飛騨登米(ひだのぼせまい)があった。富山藩は2代藩主正甫(まさとし)就任の翌延宝3年には,すでに京・金沢・富山に4,800貫目(米価を1石―40匁前後とすれば約12万石に相当する)の「御借銀」があった(県史近世下)。分国持723人・俸禄9万石に及ぶ大家臣団は,当初より藩財政を圧迫していたが,参勤交代による江戸入用や公儀御普請手伝いにより窮迫を深めた。明暦3年に4名(7,000石)が金沢預りとなったが,天和2年6月に21名,同7月には39名に「御暇被下」,その後も家臣の縮小・減俸は行われ(県史近世下),天保5年の禄高は5万5,000石(実給米高2万2,000石)で,寛文6年時に比し2万3,000石の減少となった。また借知の初出は延宝3年であるが,「御勝手方犇与御行詰」を理由に,郡方への上免米同様幕末まで続けられた。正甫は富山反魂丹売薬の祖と仰がれている。その起源については由緒書等により,備前国の医師岡山浄閑が薬を調製し正甫に献じたところ,その効能よろしき所より,富山町人松井屋源右衛門が全国的に売りさばいたといわれているが,最近この反魂丹売薬より以前に立山の御師(おし)や真言の修験者が他国を回って売り広めた修験売薬があったこと,正甫はこの「富山修験之他国売薬」を指しとどめ,宝永7年には富山町奉行支配(富山売薬の傘下)に組み入れ,富山売薬の発展を図ったことが明らかにされた。享保から宝暦にかけて売薬人の行商圏に急速な拡大があり,藩は富山町を中心とする諸商売の株立政策の中で,明和年間頃までに反魂丹売薬を株立とし,売薬商人を全国21の仲間組に組織した。文化13年には反魂丹役所を設け,売薬の製造と販売の統制と保護にあたった。正甫はまた野積谷(のづみだに)に鉄山を開発し,富山町人の他領での商売を「勝手次第」とするなど,産業育成に努めた。元禄14年には銀札を発行し,同16年札座を富山と八尾(やつお)に開いた。富山町は城下町として機能する中で,家建ても進み,富山城と鼬(いたち)川の間にあった旧町から南に大きくふくれ,町並みは神通川を越え舟橋向(ふなはしむかい)にまで及んだ。寛文7年の家数2,380軒(人数1万5,367人)が宝暦11年には3,000軒(2万人)となった。富山町人吉野屋慶寿(けいじゆ)は,正甫の高田城請取出陣や江戸屋敷類焼に際し,多額の金子を調達し,「町方諸役御免・町方惣禄」の呼称を受けた。富山藩は,宝暦10年には野積谷貧窮人の救済策として8回の富突興行を許し,同12年には恵民禄仕法を計画したが,その財政難は,同13年経費11万両に及んだ日光山御霊屋・奥院修復手伝いによって破滅状態に至ったといわれる。宗藩へ5万両の借用を願出,家臣の借知と町方(富山町)・三宿(八尾・西岩瀬・四方)への上納金の割付,大坂への資金の依頼等でなんとか切り抜けたが,明和3年に至って領民1人1日1銭ずつの人別銭の賦課を命じた(県史近世下)。財政難が破局的となってのちもたびたび幕府の普請手伝いがあり,そのつど藩は,上方や加賀・飛騨商人からの借財累増という状況下で,金策に奔走した。安永9年2月飛騨高原(たかはら)郷の北沢・牛丸(うしまる)両家は,これまでに飛騨登米や登塩を引当てに融通した借財の返済を求め幕府に訴えたが,天保10年には金4,997両と銭20貫の未払いがあった。また加賀粟が崎(あわがさき)の木屋(きや),上方の淡路屋・酢屋への借財は,文化元年に1,570貫の巨額に達している。こうした藩借財の元利返済や公儀手伝入用による財政難を理由に,明和以降郡方に3,000~5,000石の上免(上納)米を毎年のように命じ,人別銭を課した。町方・三宿へは株立営業に対する御役金(嘉永期には売薬商人だけで3,000両に及んだ)を増徴し,上納金を命じ,借財の返済不履行を強制した。富山藩は寛文7年にすでに切高を認めていたが,こうした増徴は安永年間以降の連年の凶作・飢饉と相まって農村を疲弊させ,百姓の分解を進めた。「潰百姓」を増やし,土地は大百姓や有力町人に集まった。天保15年の富山町人の持高は2万3,400石余,寺庵持高は981石余であり,文久2年には十村(とむら)等「身分高嵩」人々25名の持高は1万2,197石余に及んだ(県史近世下)。こうした状況のもとで文化10年秋には,婦負郡の「小百姓共」が年貢の減免,籾納,塩野(しおの)の開発(藩政後期の用水開削を伴う新開として,他に月岡野(つきおかの)・舟倉野(ふなくらの)・大沢野(おおさわの)などの開発がある)に反対して,富山・八尾(やつお)の有力町人や十村役宅を打ち毀した。一方藩財政は,文政8年江戸の大火で藩の江戸屋敷が類焼して以来,さらに深刻化していた。その折も折,天保2年4月13日富山城下をなめつくす大火に見舞われ,総戸数約1万1,000戸のうち8,300余戸を焼き,1万石にのぼる蔵米と富山城の大半を失った。天保12年4月調査による富山町は,町数90町余,町家竈数本家貸家とも6,860軒余,男女人数2万6,936人である(県史近世下)。しかも翌3年・4年は元年・2年に引き続き大凶作となり,窮民は城下にあふれた。経常収支で1,000石以上の赤字に加え借財30万両を抱えるに至り,「如何様勘弁仕候而も手段尽果」た藩は,天保4年西本願寺家司石田小右衛門を招き,藩政改革を依頼した。10代藩主利保(としやす)は天保6年利幹(としつよ)の封を継いだが,翌年の凶作により,同8年は大飢饉となり,町・三宿・郡方を問わず食を求める飢人があふれた。特に野積谷104か村はひどかった。そこで同年4月,藩は大坂廻米を差し止め,地払いとした(県史近世下)。天保8年には産物方役所を設置し領内産業の育成を図る一方,頼母子や反魂丹役所(はんごんたんやくしよ)を産物方付属とする等,物産の統制に当たった(嘉永~文久期にもなると産物ごとに会所仕法を設け,富山町人や十村を役人に任じ,生産から販売までを掌握せんとした)。利保は加賀藩に準じた改革を断行しようとしなながらも,その根幹にあった高方(たかがた)仕法・借財方仕法は町人や銀主の「不容易迷惑」により実施は断念,天保15年3月には,前年の郡方に次いで持高町人に人別銭を課し,町人の持高集積をむしろ認めた。しかしこの財政改革も成功せず,嘉永~安政期にかけて,藩財政はますます窮迫した。安政2年の富山町の大火,同5年の大地震,それに続く大鳶(おおとんび)・小鳶(ことんび)の崩壊による常願寺(じようがんじ)川の決壊は,領内に莫大な被害を与えた。同6年には,四方浦(よかたうら)にロシアの軍艦が姿を見せた。窮迫した藩財政と新しい状勢への打開策をめぐり,藩政内部の意見対立が表面化(安政4年の富田兵部事件,元治元年の山田嘉膳事件等),宗藩の介入もあり,政権の交代のうちに安政6年,富山藩最後の13代藩主利同(としあつ)が加賀藩から迎えられ,「万事政事向宗藩指図」となり,文久元年から郡方は富山詰の加賀藩十村の指導下に置かれた。慶応4年3月の三宿と郡方(山田組・寒江(さぶえ)組・楡原(にれはら)組・田中組・為成(いなり)組・宮川組・太田組)の家数一万4,387軒・惣人数6万3,729人,うち高持は1万697軒で4万9,323人(県史近世下)。慶応4年3月富山藩は加賀藩とともに,新政府に反対した北越征討のために出兵,長岡城で越後勢と戦った。明治2年6月,利同は版籍奉還により知藩事となった。排仏毀釈の風潮の中で同3年閏10月27日,同藩大参事林太仲(はやしたちゆう)は領内の仏教寺院を一宗一寺とする合寺令を発令し,それがもとになって同4年まで寺院のとりつぶしが続いた。明治3年の富山藩の総高は15万8,345石余,同4年春には15組で525か村となっている(郷村高辻帳/内山文書)。同4年7月廃藩置県により富山県が置かれ,富山県庁は旧富山藩領内の政務をとることになった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7083077 |