100辞書・辞典一括検索

JLogos

31

楡原保
【にれはらのほ】


旧国名:越中

(中世)南北朝期から見える保名。婦負(ねい)郡のうち。正平5年3月27日の後村上天皇綸旨に「越中国楡原保地頭職」とあるのが初見。この頃は南朝方の支配下にあったと思われ,勲功賞として楡原保地頭職が滝口中務少輔に与えられている(渡辺文書/県史中)。貞治6年2月5日の足利義詮御教書案によれば越中守護桃井直信に対し,南朝方の「小井手一族并甕信濃守等押妨」を停止し,楡原保を斎藤常喜に渡すよう命じており,北朝の支配下にあったことがわかる(聞名寺文書/県史中)。応永21年2月日の仁和寺雑掌申状案によれば,雑掌が仁和寺領阿努(あぬ)荘内猪谷・菅寺両村の安堵を訴えている。この両村は窪寺惣領庶子の跡目として,鹿苑院殿(足利義満)より洪恩院御料所として進められ,応永18年12月ll日には洪恩院殿如光(紀良子)より阿奴荘が御室法尊へ寄進され(古文書集/県史中)当知行は明白である。ところが斎藤次郎左衛門尉国則は,この両村は楡原保内であるとして押領している。楡原保は甕氏跡であり,元亨年中に甕十郎の訴訟が取り上げられず,窪寺又次郎に付するようにとの関東の下知が下されて以来,明徳年中に至るまで窪寺の庶子相浦氏が知行してきた。そののち闕所となり洪恩院殿に返されている。現在の仁和寺の知行ははっきりしており,捨て置くところの両村と甕氏跡の楡原保の内に入れたり,数十か年不知行の所を競望するのは不義だとして,両村の安堵を求めている(仁和寺文書/県史中)。これに対し斎藤国則訴状案では楡原保は文和年中に勲功賞として曽祖父常喜が拝領した所である(実は貞治6年2月5日に賜う)。ところが御料所の代官窪寺三河守の跡と称して押領するのは不当で,御料所は「射水郡阿努中村窪寺三河守跡」であり,猪谷村は「甕庶子分相伝,窪寺信濃小次郎跡」であり,菅寺村は「甕十郎跡」で,ともに婦負郡楡原保内として,父斎藤栄喜が至徳3年まで知行してきたことは明白であるとして,この両村の帰属の糾明を訴えている(仁和寺文書/県史中)が,その結果はわからない。その後は,八尾(やつお)町本法寺所蔵の法華経曼荼羅図古表具裏書に「明応第六丁巳暦伍月廿一日 越中婦負郡楡原保内本法寺常住也」と見える(県史中)。現在の八尾町・細入村一帯か。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7083513