加賀藩
【かがはん】

旧国名:加賀
(近世)江戸期の藩名。加州藩・金沢藩ともいわれるが,江戸期を加賀藩,版籍奉還の明治2年から同4年までを金沢藩と区別するのが通例である。金沢藩の方は明記した史料があるので異論はないが,加賀藩と明記した文書は,明治元年正月に藩の国情を書き上げた文書(前田家文書)以外に所見がなく,江戸期にも加賀藩の呼称があったかは不明である。ただ,同2年5月に維新政府会計寮が「加州藩公用人中」と宛所した書状を出しており(加賀藩史料),金沢藩といわれる以前に,加賀藩・加州藩といわれたことは事実である。寛永16年に大聖寺(だいしようじ)・富山の両支藩が立藩された時,日置謙が「宗藩は加賀藩と呼ぶを例とせり」(石川県史2)と述べているのは何によったか不明であるが,藩意識は江戸中期以降に生成されたといわれるので,寛永年間は時期尚早とも思える。ただ,万治3年の宗藩と両支配の村替えの際加州方と記録されているので,加州・加賀の呼称はあったと思える。ところで,領域が加越能3か国にまたがりながら,ただ一国の名を取って加賀藩といわれるのは次の理由からである。1つは,藩の府城がある金沢は加賀の国にある。次に,5代藩主前田綱紀(つなのり)以後の全藩主が加賀守を名乗り,幕府の安堵状も「加賀中将」「加賀宰相」などと宛所されたからであろう。ところが,13代藩主斉泰(なりやす)は,慶応2年に致仕した時,加賀中納言の呼称を金沢中納言に改めている。これは維新期に大藩でありながら去就の定かでなかった加賀藩を新出発させるための改名であった。次いで,藩領の変遷をみると,立藩は能登に始まる。能登の守護畠山氏の居城であった七尾城は,天正5年上杉謙信によって攻略され,同7年には畠山氏の旧臣温井景隆・三宅長盛の手に落ち,翌8年には長連竜がこれを破った。そこで織田信長は,連竜に鹿島半郡(かしまはんごおり)を与えて羽咋(はくい)郡の福水(ふくみず)に居住させ,さらに菅屋長頼を鹿島郡の七尾に,前田利家を羽咋郡菅原(すがはら)に,福富行清を羽咋郡富来(とぎ)に置き,能登を守らせた。同9年には,能登4郡を利家に与えたので,利家は七尾の小丸山に築城し領国支配に当たった。ここに加賀藩の第一歩が成立するが,連竜は利家の与力として鹿島半郡を支配した。同10年,信長の死により石動山(せきどうさん)合戦など領内に戦乱も起きるが,翌11年の羽柴秀吉と柴田勝家との戦いに,最初,勝家軍についた利家も,秀吉の軍門に降り,加賀を侵攻した功により,能登を安堵された上,北加賀の石川・河北の2郡を加増された。それで利家は,小丸山城から金沢城へ居城を移し,尾山城と改名した。この時,江沼・能美(のみ)の2郡は丹羽長秀に与えられ,与力の溝口秀勝が江沼郡大聖寺,村上義明が能美郡小松に配置された。また,利家の長男利勝(のち利長)には,石川郡松任(まつとう)4万石が与えられた。天正12年に佐々成政が能登南部の末森(すえもり)城を攻めるが,利家はよくこれを防ぎ,藩の第一危機を乗り越える。翌13年に丹羽長秀が没し,その子長重が家督を継ぎ,若狭(わかさ)8万石を領して加賀を去るが,与力の秀勝・義明は旧領に残った。ところが,その年の閏8月,長秀の旧領江沼・能美の2郡が堀秀政に与えられ,秀勝・義明は秀政の与力となった。さらに,同年9月には,佐々成政の旧領越中礪波(となみ)・射水(いみず)・婦負(ねい)郡が前田利勝に与えられ,利勝の旧領松任4万石は秀吉の直轄地となり,利家の家臣寺西秀則が代官となった。同15年には,長重が若狭から松任4万石へ移封,文禄2年には,利家の次子利政に能登の一部が与えられ,同4年に,近江国高島郡今津村・弘川村1,864石余が,さらに成政の旧領越中国新川(にいかわ)郡の一部も利家に与えられた。慶長2年には,堀秀政の子秀治,与力の秀勝・義明も越後に移封され,大聖寺7万石は山口宗永に,小松8万石は丹羽長重領とされた。翌3年4月,利家が隠退し利長が家を継ぐが,石川・河北2郡,能登口郡(くちごおり)1万5,000石,射水郡氷見(ひみ)荘の合計26万石を利家の養老領とし,2代藩主利長は,越中礪波・婦負・新川の3郡,射水郡氷見荘以外と能登の鳳至(ふげし)・珠洲2郡を襲封した。この時に,近江国の所領は,利家夫人の芳春院の化粧料となった。翌4年閏3月に利家が没すると,利長はその遺領も受け継ぐが,能登口郡1万5,000石は弟利政が継いだ。この時利長は,利家が尾山と改名した金沢を,もとの金沢にもどした。同5年の関ケ原の戦で,山口宗永・丹羽長重が西軍に味方したため,両者の領地であった大聖寺7万石と小松・松任12万石が利長に,また,能登の利政領も利長に与えられ,加越能三州の大半が利長領となり,加賀藩の基礎が確立した。慶長10年に利長は,新川郡22万石を養老領として隠退し,弟利光(のち利常)を襲封させるが,翌11年に新川郡布市等の土方領1万石と能登60か村1万3,000石とを交換し,能登に幕府領が置かれる原因をつくる。同17年に利長は,養老領のうち10万石を利光に与えるが,同19年に死亡し,残りの12万石も利光領となった。利常は寛永16年に,80万石を長子光高に分封して襲封させ,小松に退老し,新川郡と能美郡の一部,合計24万石ほどを養老領とした。また,次子利次に能美2万石と婦負・新川郡8万石の計10万石を分封し富山藩を,三子利治に江沼郡と新川郡の4万3,000石の計7万石を分封し大聖寺藩を立藩させた。正保2年に光高が死亡し,5代藩主綱利(のち綱紀)が襲封するが,同3年の高辻帳によると,加越能3か国の高124万石余・新田高10万石ほどのうち,綱利領高80万5,000石余・新田高5万9,000石余,利常領高23万9,000石余・新田高2万石余,富山藩領高11万2,000石余・新田高1万5,000石余,大聖寺藩領7万石余・新田高5,000石余で,他に土方領が1万3,000石余あった。万治元年に利常が没し,その養老領と芳春院化粧料であった近江国2,000石余が綱利に与えられ,102万5,000石余の大藩となった。同2年に富山藩は,離れている能美郡2万石と新川郡の交換を許され,婦負郡・新川郡の10万石余となり,大聖寺藩も新川郡と能美郡6か村の交換が許され,7万石余の領地が確定した。一方寛文8年に白山杣取権争いにより,越前領の白山麓十六か村と藩領の能美郡尾添(おぞう)・荒谷(あらたに)の両村が幕府領となり白山麓十八か村といわれるようになった際,加賀藩へ近江国高島郡海津の中村が与えられ,前に与えられた2村と合わせ,藩の近江領は2,430石余となった。また,寛文11年には,浦野事件を契機に重臣の長家領であった鹿島半郡を接収,さらに,天明6年に能登幕府領8か村と藩領17か村の交換によって5代藩主綱紀時代に藩領が確定した。次いで,領国支配の概要をみると,天正9年能登へ入部した利家は,まず寺社への寄進,殿原層の家臣団への編成,小名主への扶持などにより在地掌握をし,逃散百姓の還住などを奨励した。この天正扶持百姓は,鳳至郡17名・珠洲郡17名・鹿島郡4名・羽咋郡3名の41名が知られる。同10年から検地も行い,利家検地帳は,鹿島郡国分(こくぶ)村等6例が遺存しており,検地奉行の鴨野喜兵衛・大屋助兵衛は,物頭(ものがしら)の家臣団編入者とみられる。家臣の数は,慶長年間に直臣が600人ほどであったのが寛永年間に1,300人ほどに増加したといわれるが,確たる数はつかめない。幕末には,陪臣も含め1万7,000人ほどといわれている。天正検地は,百姓の申告に基づいた軽いものであったが,慶長・元和と検地を重ねるごとに手上高・手上免を行い,租税の増徴政策を進め,隠田摘発・新開奨励が強められた。また,租税収納基礎単位としての1村立てが進められ,天正16年には刀狩りを行い,士農工商の身分制を確立させた。次いで慶長9年には加賀藩特有の十村制を確立,郷村支配の根幹とした。貞享元年の十村組は,能美郡11組・石川郡11組・加賀(河北)郡6組・羽咋郡5組・能登(鹿島)郡7組・鳳至郡8組・珠洲郡4組・礪波郡12組・射水郡8組・新川郡13組の85組であった。十村は,高持百姓から選ばれ,適任者のいない所では他所より引っ越しさせ,引越十村を配置した。十村には9つの等級があり,世襲の家が多かった。組内の農政・人事面などを掌握するのが任務であったが,承応2年に十村代官制がしかれ,収納代官の任務も加えられた。ただし行政を担当する十村組と収納担当の村々とは別区域であるのが通例であった。十村制は文政4年から約20年間中止されるが,天保10年に復元した。これを復元潤色といった。加賀藩特有の農政としては改作法が著名である。改作法は,慶安4年に着手され明暦2年に完成というのが通説であったが,近年の研究では,寛永4年から奥能登2郡で稲葉左近が試行し,その成果をみて慶安4年より藩内全域に着手したといわれている(田川捷一:能登輪島上梶家文書目録解題/同目録)。改作法は,給人の知行地に対する直接支配を廃除させ,検地により草高・免・小物成を定めた村御印を各村に下付し,収納業務を奉行・十村・村肝煎によって行う郷村支配の確立にあった。給人の知行地直接支配を代行する蔵宿制は,承応3年に始められ,金沢1・加賀2・越中16・能登19の38か所に蔵宿が置かれ,その数104軒を数えた。改作法によって定免制をとった藩は,その収入量が一定し,予算制を取ることができるが,一方,農民に救策を講じ,再生産を確保させている。村政は,肝煎・組合頭・長百姓が中心となって行い,農民には高持の百姓と無高の頭振(あたまふり)がいた。頭振は,分家の際に高分けせず分家した者や,元禄6年の切高仕法により持高すべてを売った者で,村寄合にも参加できないのが通例であった。幕府領では,水呑と呼ばれ,その割合は村によって違い,多い所では8割も無高の百姓がいた。肝煎は村民全員の連名で十村・改作奉行まで願い出され,組合頭は十村へ願い出て許可制により任命された。長百姓は,高齢の高持百姓より選ばれ,村政に参与する役を果たした。村方に対して,金沢・小松・松任・本吉(もとよし)・宮腰(みやのこし)・所口(ところぐち)・高岡・魚津(うおづ)・今石動(いまいするぎ)の9か所には町奉行が置かれ,町方として支配された。米生産のない町方の本税は町夫であるが,この町夫は,承応3年に定納化された。ところが,この際に前記9か所以外の氷見(ひみ)・宇出津(うしつ)・輪島・中居(なかい)・永嶋・津幡・野々市・竹橋(たけのはし)の8か所にも町夫が課せられた(改作所旧記)。この8か所は,村御印が交付され,郡奉行配下の村方であるが,地域の交通・交易の中心地であり,実質的には農業生産を離れた町民の家が密集する在郷町であったので,町夫が課せられ,宿方といわれた。元禄3年の町方・宿方は,加賀19・越中30・能登28か所(加賀藩史料5)と増加している。先の竹橋村は,寛永12年に郡役が免除されるが,その理由は,宿役・郡役の両者を上納している所がないからと述べている(加賀藩史料2)。宿役を負担し,郡役免除が宿立ての1つの基準であった。町方でも金沢は,城下町として多数の家臣を居住させたため,元禄10年には,武家以外の戸数1万2,085・人口6万8,636を数え(加賀藩史料5),総人口12万ほどと推定される大都市となった。このため,周辺農地が相対請地(あいたいうけち)として,農地扱いのまま市街地化されていった。これら町民の中には,藩の御用を勤め,屋敷地を与えられ,苗字・帯刀および藩主に拝謁を許された御用商人・御用職人を頂点に,約30%を占めると推定される借家町人などさまざまであるが,藩招聘の学者・工芸職人とともに,金工・鋳物・陶器・染色・象嵌・蒔絵など多岐にわたる産業に従事しており,藩が元禄年間に収集した工芸品の見本は「百工比照」といわれた。また,数十万点に及ぶ集積された図書は,新井白石をして「加賀は天下の書府なり」といわしめたと伝えるほどである。これらを背景に,富裕な町民・農民が文化を享受し,文化を向上させる基盤となった。藩財政をみると,宝永2年に借銀返済のため算用場試算では,収入1万1,042貫余・支出9,410貫余で,1,632貫余の残銀があった(加賀藩史料5)。ところが,寛政2年になると,収入7,162貫余・支出1万354貫余もあり,差引き3,192貫余の赤字となっており,藩財政の窮乏ぶりがうかがえる。藩は,寛永4年に塩専売制を採用するなど,殖産にも力を入れるが,移出入を禁止する閉鎖的な経済政策をとったため,藩財政を安定させるほどにはならなかった。そこで10代藩主重教は財政の赤字を補うため宝暦5年銀札を発行したが,これがかえって激しいインフレを起こし,一揆や打毀しで人々を苦しめる「銀札くずれ」となった。その上同9年には金沢に大火があり,金沢城をはじめとし1万戸を焼失した。結局幕府からの5万両の借金,家臣からの借知,領民からの冥加金徴収でその場を繕った。これではならぬと安永7年には産物方を設け,積極的に資金を貸し付けて桑・木綿・絹・焼物等の振興を図ったが,速効性を期待するのは無理であった。そのため政権の交替によって産物方は設置,廃止を繰り返すのみで,充分な実効をあげるに至らなかった。天保の改革期には奥村栄実が政権に在ったが,宮腰(みやのこし)海商銭屋五兵衛を用いて町人からの御用金の増徴をはかるのみで,家臣からの借知は相変わらずであった。奥村の死後,銭屋五兵衛も河北潟干拓事件で罪を問われ,非業の死を遂げるが,この後に出て来た黒羽織党は,無駄な支出を省き,綱紀を粛正,新しい洋式軍事調練を採り入れ,迫り来る外圧にも対抗しようとしたが,13代藩主斉泰の好むところとならず,安政2年その一派は政局から一掃された。斉泰のこうした姿勢は,加賀藩唯一の尊王事件といわれる,世子慶寧の元治元年禁門の変における長州藩との接近に対し,慶寧は謹慎,側近の松平大弐以下40余人を死刑・入獄・流刑に処し,尊王派の根絶を招いた。このような動きの中でも,藩は海防はゆるがせにできなかった。天保14年の所口在住の任命につづき,中居での大筒作成,輪島などの台場,福浦などの遠見番所,石川郡打木浜での試射,そして嘉永6年に藩主みずから能登を巡視して士気を盛りあげた。さらに鈴見村の銃製造所,金沢での洋式兵学校壮猶館,七尾軍艦所などの諸施設が相次いで開設された。また,壮健な百姓を集め銃卒稽古を行うが,長州の奇兵隊ほどにはならなかった。軍艦も500tの李白里丸など6隻あったがさしたる活躍もなかった。慶応2年14代藩主となった慶寧は,卯辰(うたつ)山に養生所を作り,陶器・漆器等の生産施設を集めて,新たな殖産興業を期しているが,鳥羽伏見の戦に敗れた幕府側になお援軍を送るなど,側近に人を欠いたためか,天下の大勢に暗かった。同年4月北陸道先鋒総督高倉永祜を迎え北越(長岡)戦争への従軍を願い出て,ひたすら朝廷に忠節を表明せねば100万石の保全は至難と思われた。利常以来の保全策が,常に消極的手段をとらせ,ついに明治維新のバスにも乗り遅れたのである。この点は利常の三子利治が建てた大聖寺藩も同様であり,終始ほとんど変わらぬコースを歩んでいる。明治2年3月に版籍奉還を願い出,同6月17日に認められ,14代藩主慶寧は金沢藩知事に任命された。同4年の廃藩置県の際,加越能3か国で3,578か村あり,高は135万3,352石余,戸数23万8,649・人口107万9,345で,兵隊は5大隊半・3砲隊と報告されている(加賀藩史料末下)。戸数・人口の内訳は,士族・卒1万6,552・5万2,927,寺社2,555・1万1,993,平民等21万9,542・101万4,425であった。

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