地黄煎町
【じおうせんまち】

旧国名:加賀
(近世~近代)江戸期~昭和42年の町名。金沢城下町のうち。明治22年からは金沢市の町名。古くは石川郡富樫(とがし)荘泉野村の出村で,泉野新百姓・泉野新田・泉野新などと称したが,天保年間に地黄煎村と改めた。金沢の町端沿いに民家があり,寛文2年の文書には古地黄煎町,同11年には古地黄町,明和年間には地黄町と私称していた。文政4年,郡地が町奉行裁許となって,地黄煎町と呼ぶ相対請地で明治4年戸数22であったが,同12年,一般の町地に編入された。町名の由来はもと地黄煎(穀芽の粉に地黄という薬草の汁をねり合わせた強壮薬)を売る店があったからといわれている(郷土辞彙)。60余戸の産土神として地黄煎町八幡社がある。また承証寺という竹やぶに囲まれた日蓮宗の寺院一帯を承証寺藪と呼んだ。菜種・南瓜・麦・さつまいもなどの畑地としても名をなした(古蹟志)。「皇国地誌」では「雀谷川ヨリ南方街尽マテヲ云フ。五町壱拾九間許,幅凡三間」と見える。大正5年の戸数75・人口374。大正13年皇太子成婚記念事業として市立運動場を設置することになり翌14年広さ約1万坪・工費約6万円で建設された。昭和14年には,金沢陸軍病院泉野分院が県立金沢一中の西側に建設された。昭和22年,市立運動場は第1種公認競技場に認定され,10月30日から第2回国民体育大会秋季大会場となった。昭和30年の世帯数103・人口493。同38年一部が金沢市泉野町4・6丁目,同42年残余が金沢市泉が丘1・2丁目となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7087382 |