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得橋郷
【とくはしのごう】


旧国名:加賀

(中世)鎌倉期から見える郷名。加賀国能美(のみ)郡のうち。郷名は,「和名抄」郷の能美郡兔橋(うはし)(得橋)郷を継承しており,中世になって,「得」の訓みは「う」から「とく」に転じている。中世の郷名としては,建仁元年7月20日の地頭某譲状案の,能美荘内の重友(しげとも)保の四至に記載される「南限得橋郷」が初見(菊大路文書/鎌遺1234)。永仁5年2月22日の関東下知状によれば,加賀の国府南辺の在庁名である長恒(ながつね)名内の荒木田(現在の小松市荒木田町付近)・佐々木窪田(現在の小松市佐々木町付近)の屋敷・田畠が,加納分として得橋郷に含まれていたことが知られる。徳治3年5月2日六波羅探題裁許状によれば鎌倉後期の地頭職は六波羅探題の料所であった。正安4年11月22日の関東御教書案,乾元元年12月21日の亀山法皇院宣によって,筑前国宗像(むなかた)社の代わりに,加賀国石川郡の笠間(かさま)東保とともに南禅寺に寄進され,徳治3年7月19日の後宇多上皇院宣によって,加納分の得南(とくなみ)・益延(ますのぶ)・長恒の在庁3名も南禅寺に寄せられた。南禅寺領となった直後の延慶2年6月20日「得橋郷并笠間東保等内検帳案」によれば得橋郷は,得橋本郷(牛嶋村)・北佐野村・南佐野村・佐羅(さら)村と,加納の得南・益延・長恒3名によって構成されていた。牛嶋村・今村(当時は他領となっている)に加納3名を加えた得橋本郷の,延慶2年における総田積は135町6反10代。国分寺免田・府南社祭田・府南社経田・庁内田・在庁名・国衙公人給・国雑仕給などの国衙関係の除田を引いた定田は65町9反25代,年貢米736石1斗2升2合,色々銭144貫570文,絹2切・糸12両・茜12斤など。北佐野村の総田数は23町8反15代,白山宮大般若田・金剣宮田などの白山宮関係の除田を引いた定田は18町30代,年貢米127石2升,色々銭19貫960文,綿67両・糸4両など。南佐野村の総田数は11町9反10代,定田は11町6反10代,年貢米243石2斗2升,色々銭30貫490文。佐羅村の総田数は32町9段40代,定田28町2段10代,年貢米167石2斗8升,色々銭36貫620文,早籾8斗など。得橋本郷は,12の名と82人の請作人が登録される一色田に,3つの加納在庁名を加えて編成されており,定田のなかに占める一色田の比率が88.6%という高率を示す点に特色がある(中世後期の商品流通と領主階級/日本史研究65号)。郷内には,能美丘陵を隔てた東方の,手取川河谷の白山宮加賀馬場の免田が多く,南禅寺領となって間もない徳治3年5月2日の六波羅探題裁許状によれば,得橋郷地頭代興範と白山宮加賀馬場中宮三社(中宮・佐羅宮・別宮)雑掌貞清の間で,郷内の佐羅村をめぐって相論が展開されており,元亨元年4月10日の六波羅探題召状案にも,手取川河谷の山内(やまのうち)荘地頭吉谷五郎の子の虎犬丸が,佐羅宮・別宮神主と称し,白山宮の神人を率いて得橋郷内佐羅村に乱入したことが見える。他方,嘉暦2年6月9日の六波羅探題召状案によって,得橋郷佐羅村の用水を止めた下流域(西方)の郡家(ぐうけ)荘(板津荘)長野保の惣領地頭長野(板津)氏も召喚されている。その後,元弘の乱によって,いったん,南禅寺の手を離れたが,建武元年8月29日の後醍醐天皇綸旨によって,得橋本郷が南禅寺に還付され,建武3年7月18日の足利尊氏安堵御教書によって,足利尊氏も還付を確認している(以上,南禅寺文書)。以後,南禅寺による領有が続くが,一向一揆の段階を迎えて,支配権が著しく弱体化し,「天文日記」によれば,天文5年10月7日条・同年10月9日条・同7年9月4日条と,しきりに本願寺証如に対して領有権の確認を求めている。こうした動きを反映して,南禅寺側の代官職をめぐる内部抗争も激化しており,延徳4年9月5日の室町幕府奉行人連署奉書では,得橋郷に対する押妨行為を理由に定永都聞の追放が認められ,天文15年3月1日と同年5月16日の室町幕府奉行人連署(南禅寺文書)は,得橋郷代官の周璉首座から景珠都寺への改補と,周璉の追放を承認している。得橋本郷は,上述の徳治3年5月2日の六波羅探題裁許状によって,牛嶋村と称したことが知られ,現在の能美郡寺井町南部の大字牛島に比定される。北佐野村・南佐野村も,寺井町大字佐野付近に比定されるが,得橋郷佐羅村の遺称地は知られない。加納分の得南・益延・長恒3名は,得橋郷よりも南の国府(現在の小松市古府(こふ)町)周辺に連なる。




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「角川日本地名大辞典」
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