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七尾城
【ななおじょう】


七尾市古府(ふるこ)・古屋敷・竹町に所在。国史跡。能登半島中央部を南東に走行する石動(せきどう)山系北端部,標高300mの山地に位置した山城。城域は山内の各所に多く遺存する平坦面(郭)・石垣・土塁・空堀などから,木落川流域にかける約4km(^2)と推定されるが,近年広汎に遺構が発見され,現在城域の国史跡の指定範囲が再検討されている。築城年代は不詳だが,永正12年暮には,能登守護畠山氏の七尾山の城郭とその城下を包括して呼称したと推定される「七尾」の地名が見えており,永正10年10月から同12年春にかけての能登国錯乱時には,かつて南北朝初頭に城砦として使用され,かつ石動山修験の道場でもあった七尾山に,畠山義元・義総が本格的な山岳城を築き,以後戦国中・後期を通して拡充されたと考えられる(温故足徴・三州志)。大永6年5月21日,能登に下向していた冷泉為和が,「能州七尾城畠山左衛門佐(義総)亭」で開かれた歌会に列席しているのが初見。為和はその後,天文10年8月にも再度能登に下り,9月9日,「能州七尾城」の畠山義総邸で和歌を詠んでいる(今川為和集)。七尾城内には,能登の守護畠山邸のほか,「独楽園」と命名された温井総貞邸をはじめとする重臣層の館や,能登畠山氏とその被官人の儒学・漢詩文の振興に功績のあった東福寺栗棘門流の虎伯の釣山軒などの寺庵もあり,戦国中期,能登畠山氏の文芸活動の主要な舞台となった(猶如昨夢集)。天文14年7月,領国の安定と都鄙文化の交流に力のあった畠山義総が死去すると,七尾城をめぐる情勢は一変した。義総の後を襲った畠山義続政権のもとで,重臣層の政治的台頭がはかられ,同19年7月に,七尾城内で畠山家臣の双璧であった温井総貞と遊佐続光の両派が争い,同年10月,遊佐一派が畠山義続=温井総貞に反乱を企て,翌年2月まで七尾城とその周辺で攻防戦が展開された。だが同年3月両派が和睦して事態の収拾がはかられ,総貞・続光に長続連・三宅総広・平総知・伊丹続堅・遊佐宗円の重臣層を加えた,領国支配の主導権を握る「能登畠山七人衆」による支配体制が成立し,畠山義続の権威は失墜した(棘林志・栗棘庵文書)。しかし,同20年頃に義続が引退してその子義綱が家督を継ぎ,次いで同22年12月,遊佐続光が七人衆体制内における権力抗争で温井総貞に敗れて越前に遁走すると,温井一族がその中枢を構成するが,弘治2年,大名権力の回復を目指す畠山義綱の温井総貞暗殺事件によって七人衆体制は崩壊した(栗棘庵文書・三引文書)。その際,遊佐続光の能登復帰がはかられたらしいが,弘治3年から永禄初年にかけて,さきに加賀へ出奔していた温井・三宅一派が,一向一揆勢力と結んで能登進攻を展開し,畠山義綱方は七尾城にこもって一時的な苦境に陥ったが,永禄3年頃には温井一派を能登から撃退,義綱の専権体制が成立する(阿岸本誓寺文書)。永禄3年2月,鳳至(ふげし)郡櫛比(くしひ)荘の鉄川(かながわ)寺衆徒が,七尾城に赴き,城内の奉行所に寺領の復旧を訴えている事実は,七人衆体制解体後の義綱の専制のもとで,奉行所が領国支配の中枢機関として設置されていたことを物語る(諸岡比古神社文書)。しかし義綱専制は,やがて重臣層の反発を招いて挫折,永禄9年7月の政変で畠山義綱とその父徳祐(義続)は近江国に出奔,代わって義綱の幼児義慶が,長続連・遊佐続光ら年寄衆に擁立され七尾城主となった(笠松文書)。さらに,弘治2年の政変で,能登から逃亡していた温井景隆・三宅長盛兄弟が復帰し,義慶の新政権に参画することになる(栗棘庵文書)。一方能登回復の執念に燃える畠山義綱は,永禄11年5月能登に進攻,七尾城周辺の出城群を占拠して本城に迫ったが,同年9月ごろになって義綱方将士の離反が相次ぎ,捲土重来を期していったん近江国へ撤退した。しかし,義綱は再び能登の土を踏むことなく,文禄2年12月21日,近江国伊香郡余吾浦で死去した(自養録紙背文書,興臨院月中須知簿)。他方重臣層の傀儡化した義慶の政権下の七尾城は,永禄末年から天正初年にかけて,長・遊佐・温井・三宅・平の重臣諸氏らによる陰湿な権力争奪の場となり,ひそかに越後上杉謙信や加賀一向一揆さらに織田信長と結ぶ者もあり政情は混沌としていた。天正2年畠山義慶が変死を遂げ,弟義隆が擁立されて長続連が城内の主導権を握るようになるが,同4年11月,上杉謙信は人質としていた義隆の叔父義春を,能登畠山氏の家督にすえることを名分に掲げ能登攻略を開始,同年12月には,「七尾一城」を残して大半を占拠した(北徴遺文)。しかし翌5年3月,謙信が関東の政情不安によって越後へいったん帰国すると,畠山義隆・長続連ら七尾城方の失地回復戦が開始された(長家家譜)が,同年7月に城主畠山義隆が急死し,謙信が再度能登に来攻したため,七尾城は苦境に陥り,重臣遊佐続光の上杉方への内応もあり,同年9月15日,要害を誇った七尾城はついに落城,能登畠山氏170年の歴史に幕を閉じた。9月29日,謙信が能登での戦勝を長尾房景に報じた書状によれば,長続連一族100余人を打ち捕らえて七尾城を乗っ取り,温井景隆・三宅長盛・同藤三・平喬知以下の者どもは命だけを助けたといい,「令登城見流候得者,従聞及候名地,賀越能之金目之地形与云,要害山海相応,海頬嶋々之体迄も難写絵像景勝迄候」と七尾城の要害とその景勝に感嘆している(歴代古案)。かくて上杉氏の能登支配が成立し,謙信は家臣の鰺坂長実を七尾城に配置して,遊佐続光とともに領国支配に当たらせた。だが翌6年3月,謙信が急死すると,長・温井・三宅氏ら畠山氏旧臣による上杉氏追撃戦が開始され,同年8月ごろに至り,温井景隆・三宅長盛らが上杉勢力を能登から追って七尾城に拠り,織田信長と結んだ(上杉家文書・長家文書)。しかし,同じく信長と結ぶ畠山氏旧臣の長連竜によって撃破され,同9年3月頃,温井・三宅氏らは七尾城を織田方の部将菅屋長頼に明け渡し,石動山へ退いた。次いで同年8月,能登国は織田信長から家臣の前田利家に与えられた(尊経閣文庫所蔵文書)が,利家は山城形態を持つ七尾城を使用せず,近接する所口に平城形態の小丸山城を新たに築いたため,七尾城は廃城となった(七尾市史)。




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「角川日本地名大辞典」
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