角川日本地名大辞典 中部地方 石川県 32 野町【のまち】 旧国名:加賀 (近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は金沢城下町のうち。明治22年からは金沢市の町名。はじめ1~6丁目があり,昭和42年からは1~5丁目のみとなる。犀川(さいがわ)以南の北国街道沿いの町地で,安政年間には本町の1つに数えられていた(金沢市中旧記)。往時は郊外の広野で,市街地が拡大されて町地となったとき,泉野町といい,それを略して野町と呼んだ(稿本金沢市史)。古くは,泉野に8か村があり,それを略称して野八あるいは野八ケ,または泉野八ケといったのが町名の起源ともいう(古蹟志)。市の中心部から1~6丁目と区画され,1丁目には野町広小路の十字路があり,商店街の中心だった。橋場町の里程元標からの一里塚が野町6丁目と隣接する泉新町との境界点にあり,榎(えのき)をもって目印とした(郷土辞彙)。1丁目の野町神明宮(現神明宮)が移建された慶長元年に野町の戸数は580余戸であった(県大百科)。足軽屋敷・再場・泉寺町・西の廓や犀川を越えて街の中心部に近く,人通りも多かった。明治4年1丁目は神明社門前を編入し戸数49,2丁目は34,3丁目は因徳寺門前を編入し40,4丁目は33,5丁目は45,6丁目は本光寺町を編入し73となる(加賀藩史料)。「皇国地誌」によれば県庁の東南で,1丁目は「犀川大橋ヨリ西南助九郎町入口マテヲ云フ。壱町三拾九間許,幅広キハ三間五尺,狭キハ二間三尺(本通)」,2丁目は「一町目界より西南南石坂町入口マテヲ云フ。壱町八間許・幅凡三間五尺。属巷東南ニ入リ,泉寺町ニ通ス(同上)」,3丁目は「二町目界ヨリ西南下小柳町入口マテヲ云フ。壱町八間許・幅凡三間五尺(同上)」,4丁目は「三町目界ヨリ西南上小柳町入口マテヲ云フ。壱町七間許,幅広キハ三間壱尺狭キハ弐間四尺(同上)」,5丁目は「四町目界ヨリ西南六斗溝ニ架スル橋マテヲ云フ。壱町八間許・幅凡弐間三尺(同上)」,6丁目は「五町目界ヨリ西南壱町弐拾間許ニシテ泉町ニ続ク,幅凡三間(同上)」とある。明治10年2丁目に第二警察署設置。大正2年,神明宮境内に寄席神明館がつくられたが,2年後廃止。同5年,野町5丁目~松任間に松金電気鉄道株式会社が電車の運転を開始した。同5年の戸数・人口は1丁目87・381,2丁目60・248,3丁目74・287,4丁目77・298,5丁目85・308,6丁目86・300。同9年には松金電車と市内電車が野町で接続された。昭和5年,失業者救済事業として野町5丁目と有松町間の道路拡張工事が行われ,「南端国道」と通称された。沿道には農林省金沢米穀事務所(現石川食糧事務所)や野町郵便局などの公共施設も設けられた。昭和42年住居表示を実施し,金沢市石坂与力町・石坂角場11番丁・泉町・泉本町・増泉町・泉寺町・蛤坂町・桃畠町・千日町・六斗林2~3丁目・笹下町3の小路の各一部と石坂町・石坂角場1~10番丁・六斗林弓の町・上小柳町・北石坂町・本馬町・南石坂町・沼田町・助九郎町・下小柳町・三間道を編入。同年6丁目は金沢市泉1丁目・弥生1丁目となり消滅し,同44年1丁目の一部を千日町へ編入。同45年の世帯数・人口は1丁目298・965,2丁目786・2,512,3丁目717・2,564,4丁目248・839,5丁目183・840。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7089033