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輪島港
【わじまこう】


能登半島外浦海岸の中心部に位置し,市街地西寄りの輪島崎町・海士(あま)町の東にある港。東南端は輪島川の河口,北辺は輪島崎の断崖下に続く大蛇礁や鴨ケ浦の岩盤・岩礁。泊地面積約197km(^2)・航路約8.9km。船揚場279m,物揚場約1km,網干場80mなど約2.2km。防波堤732m,砂防堤118m,導流堤168m,突堤319m。護岸約3.6km,道路約1.6km。航路標識3か所(灯台),給油施設1か所などの施設を備えた避難港(昭和26年指定)・地方港湾である。天正9年の「廻船大法」(廻船式目)の奥書に日本の有名な湊として3津・7湊があげられ,その7湊の1つに数えられ,「ヲヤ 小屋ナリ」と注されているのは,古代の小屋(おや)郷,中世の大屋(おや)荘の港で,中世には親の湊と呼ばれた寛文10年の村御印に輪島村の外海船櫂役1,473.5匁・猟船櫂役232匁5分,輪島崎村の澗役3,922.2匁・猟船櫂役172匁5分とあり,他港に比して船と船主・漁業従事者が多かった(輪島市史)。天明4年公儀御城米船の出入りもあり,造船も発達していたらしく,文化7年書上帳に鳳至(ふげし)町の船大工5人が見える。天保14年書上帳には7人の船問屋が記されている。嘉永7年には入船660隻(60~1,000石積)・出船50隻。「能登名跡志」に「オッソレソレサの拍子に入る船に出る船せわしき中にも恋は曲もの」とあり,陸運の開けなかった当時のにぎわいがしのばれる。輪島からの連絡陸路は,古くは狭隘な山坂を経由したため,陸路開発までは多く海路が利用されたが,元禄15年「能登国高都合並郡色分目録」に「9月ヨリ明ル3月迄,舟ノ通無御座候,但風無時ハ猟船出入仕候」とあり,外海の関係で春の彼岸から遅くとも二百十日までの就業と限られた。「輪島市史」によると,明治30年頃,鳳至(ふげし)町の永井新平は,汽船新川丸を港に浮かべ海運計画を立てるが挫折,次いで丸島回漕店が引き継ぎ,大正3年金石(かないわ)・安宅(あたか),大谷・鵜川行の外浦汽船を取り扱い,さらに鉄道院および汽船会社と契約して輪島からのりの船と連絡した小荷物運送を開始,不定期ながら関門・北海道への直通汽船も取り扱った。明治31年七尾鉄道開通(輪島までの開通は昭和10年),大正4年輪島~穴水間に乗合自動車開通と陸運の開拓につれて,輪島港は築港の不備や漆器以外の産業がなく,収支の採算がとれないため汽船利用が衰え,漁港的性格が強くなった。今日,定期航路は昭和38年以来の輪島~舳倉(へぐら)島間のみ。「輪島市史」に「漁業に従事する者は,輪島崎・海士の区民の全部」とあり,伝馬船や手繰網・夜釣り・潜水が主であった。明治39年輪島崎・海士町漁業組合結成,同41年初の漁業用機械船鳳来丸建造に続いて,大正6年築港発案,同11年2艘引発動漁船操業(のち廃業),同13年能登電気会社製氷冷蔵開始と水産界の進展がみられる。第2次大戦後,統制の解除から漁船の増加・漁撈法の改善など資本競争に入り,他地域船に圧迫されがちとなる。広大な大陸棚(大和堆・北大和堆・白山瀬)を前面にしながら,沿岸漁業を主とし,港湾施設・漁業施設が不十分で,昭和47年輪島港整備計画(輪島新港素案)が急がれたが,日本海沿岸地域における航行船舶の安全を図るための避難港としての防波堤整備が昭和65年を目標に,昭和53年着工された。昭和54年輪島市漁業協同組合の組合員1,153名,うち輪島崎・海士地区の組合員643名,漁船781隻(10t未満745隻),漁獲量6,113t,漁獲金額36億3,900万円となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7090527