後町
【うしろまち】

旧国名:越前
(近世)江戸期~明治7年の町名。勝山町の1町。勝山三町の1つで,袋田町・郡町の西側を南北に町並みが続き,西は九頭竜川右岸の河原に接する。その南端立石町との境に対岸中島村に通じる鵜の島渡があった。町名は慶長6年の西町藤田組帳(笹屋文書/勝山市史資料篇)に初めて見え,高は626石余。袋田町・郡町が勝山街道の通る商家を中心とした町であるのに対し,当町は職人町の様相が強かった。町の北端長淵町に接する角には牢獄が置かれていた。天保年間に庄屋役選任などについて騒動が起こった(勝山市史)。小町名に寺町・正覚寺門前があった(名蹟考)。当町から袋田町お種坂へ通じる道は魚横町,尊光寺門前から同じく石坂へ通じる道は尊光寺横町,尊光寺横町と南の神明坂との間には雲平横町といった横町があった(同前)。西側の九頭竜川河原に続く地に寺院が集められ,法栄寺・善竜寺・正等寺・尊光寺・延勝寺・西方寺・照源寺・浄教寺・浄円寺などが立ち並んでいた。尊光寺はもと村岡山麓にあった北袋郷民の会合所に始まり,天正2年一向一揆が平泉寺を攻めた折には評定所になったといわれる。平泉寺滅亡後は「北袋川南 廿五日講」中の惣道場となった。天正2年の本願寺顕如による証如絵像裏書に「越前国大野郡北袋川南四ケ村惣道場物也」とあるという(由緒書)。慶長2年現在地に再建され,元和3年寺号を得て一家衆寺院となった。寛文4年惣坊となり,勝山地域本願寺末寺院の触頭となった。勝山藩内町在の集会・行事によく利用され,文化8年大杉沢騒動の際には藩内寺院の先頭に立って騒動の鎮静化に尽力した。天正年間に下付された顕如木像を記念する顕如講が毎年8月23日に催され,近在の参詣者でにぎわった。浄土宗法栄寺は寛永2年藩主松平直基の創立とされ,真宗正等寺は同16年寺号を許されて文化7年本願寺直末となった。寺町や横町などには魚屋・仕出屋・茶屋が出現し,遊女を抱えるところもあり,次第に歓楽地的な様相を呈した。浄敬寺横町には孤舞屋(遊女業)が並び一夜に100人の客が出入りするほどで,百人町とも呼ばれたという(勝山市史)。「足羽県地理誌」に勝山の町名として後町と見え,「敦賀県管轄区分表」には後町182戸とある。明治7年上後町・中後町・下後町の各一部となる(旧県史)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7091169 |