100辞書・辞典一括検索

JLogos

67

川向唐仁橋町
【かわむかいとうじんがはしまち】


旧国名:越前

(近世)江戸期~明治7年の町名。敦賀町の1町。川向6町の1つで,東の川向御所辻子町と合わせて両浜町とも呼ばれる代表的漁師町。町域は,小屋川沿い西1~5番町とその東の真禅寺町(火除地)の一部からなる。西1番町から川向御所辻子町東端片原町に至る両町内の各町並みは,海岸線に沿って天満神社の前を東西に走る通りから,南北に櫛歯状に並んでいた。当町と川向御所辻子町について「敦賀志」は,天正4,5年頃漁業の適地のため,川中の唐仁橋町・御所辻子町から移住してきたと記す。しかし,寛文7年4月の川向積荷船役銀出入覚書(家倉家文書)で両浜惣中が「七拾年余以前に川向へ御意ニて参候」と述べており,天正年間の敦賀城築城に伴う町割の一環としての強制移転と思われる。両浜町は,中世には敦賀湊と河野浦の間の回漕に従事した河野屋座に属していた(同前)。川向に移転後も権利の一部を持っていたが,次第に舟道(舟持仲間)3座の1つ漁舟座として漁業専業となり,その権利は海運業の川中の町舟座,もとの川舟座へ譲渡した。正保2年に両浜が小浜藩に納入した小物成銀は1貫125匁余,うち地子銭421匁余・駄肴之銀320匁・網銀150匁・いやぢ役銀24匁・肴銭米108匁・島手銀102匁であった。両浜の漁舟座は大座・小引座・磯見座の3座に分かれ,小引座・磯見座を合わせて小座ともいった。大座は古くからの本漁師からなり,本座であり,春の王余魚引,夏の沖鯖釣,冬の鱈引を主要な漁とした。小引座は海鼠引に従事し,磯見座は鮑・栄螺を採った。また「いやじ衆」と称し,魚扠を用いて鱸を獲る者も磯見座に属した。宝永7年の当町の座数は大座11。公事舟を課せられる時は大座より舟と舟頭,小座は水主を出すのが慣例であった。大座の使用する漁船は,板5枚合わせで長さ7尋ほどの大船,6,7人乗りで,天渡船と称した。沖釣の場合などには数日の食料を備え,丹後経ケ崎(現京都府竹野郡丹後町)や能登沖にまで出掛けた。主要漁場は東浦の岡崎(杉津浦)より南条郡大谷浦で,享保5年頃は綱手600尋の手繰網,引網1,900尋の大地引網,延縄,夜釣いか付,いやじなどの漁であった。敦賀町での生魚の店売りは西町の魚屋(魚市場)に限られたが,婦人が頭上に盥を載せて売り歩く町中での行商特権が両浜と今浜村にのみ与えられていた(山本家文書)。寛文3年の家数160うち家持134・貸屋26(寛文雑記)。同7年の家数は130(うち真禅寺町8・借屋9),舟数32うちハカセ舟13・餌取舟9・中舟4・下り荷積舟4など(同前)。享保11年の家数116(指掌録),「敦賀県管轄区分表」では174。明治7年湊町・天満町の各一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7092054