気比荘
【けひのしょう】

旧国名:越前
(中世)平安末期~室町期に見える荘園名。越前国敦賀郡のうち。安元2年2月日の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書/平遺5060)に「越前国気比」と見える。その後,建保6年と推定される左大臣藤原(九条)良輔家遺領目録(門葉記雑決/鎌遺2409)に気比社領の1つとして「気比庄 年貢五百八十二石」とあり,鎌倉初期には九条家を本家,気比社を領家としていた。建暦2年9月日の気比宮政所作田所当米等注進状(気比宮社伝旧記/同前1945)によると,作田は承元3年の実検で43町40歩あり,除田4町8反,佃3町を引いた定田が36町2反40歩であった。除田の中に「鎮守林宮祭官料田一丁」「公文給田一丁」が見え,当荘の鎮守として林宮があり,荘官として公文がいた。定田の分米は反別6斗代で217石余となり,これを本家2・領家1の比率で分配した。また,分米の2割の交分米43石余と小佃の所当米17石は大宮司の得分とされた。この他本家は「塩海船賃」,領家は大佃の所当米34石と種子料6石に加え,夏物綿・皮剥苧・白苧・移花・薦・簾・黄皮・苅安などの公事物も収取していた。建長2年11月日の九条道家惣処分状(九条家文書)によると,当荘は良輔の死後,相続した妻八条禅尼が最勝金剛院に寄進して同院領となったが,良輔の子道家の処分状に見えるところから,最終的領有権は九条家のもとにあったものと思われる。その後,嘉元4年6月12日昭慶門院御領目録(竹内文平氏所蔵文書)に興善院領として見え,「別当(藤原)惟方卿以下寄付也」とあり,興善院領を経て亀山天皇の皇女昭慶門院憙子内親王のもとに寄せられた。さらに,元徳3年2月26日亀山天皇の孫後醍醐天皇は,気比社造営のため当荘などの一円知行権を15年を限って妙香院に与え(同前),同院を管下に置く青蓮院門跡領となった。室町期には守護斯波氏のもとで半済とされることが少なくなく,応永6年6月29日,長禄3年7月19日に半済が停止され,青蓮院門跡に渡されている(華頂要略/大日本仏教全書)。長禄3年を最後に所見がなく,戦国期には荘園としての実体を失ったようである。荘域は未詳であるが,気比社の周辺にあたると思われる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7092393 |