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茶町
【ちゃまち】


旧国名:越前

(近世)江戸期~明治7年の町名。敦賀町の1町。笙ノ川左岸に位置し,今橋によって川中の金ケ辻子町に通じる。寛永11年小浜藩主酒井忠勝が入部の折笙ノ川尻の洲崎を検分し,翌12年町立した。はじめ今橋橋詰町と号したが,同15,16年頃に多くの茶問屋が建ったため茶町と称するようになった(酒井忠勝書下・指掌録)。今橋は長さ16間・幅3間,郡内第1の橋で,はじめ土橋で,のち板橋に代えられたが,享保9年土橋に戻った。橋の両端には木戸が付けられており,火事の際橋の火消役は両側の茶町と金ケ辻子町が担当した(指掌録など)。笙ノ川河口の洲崎の浜にある高さ3丈の高灯籠は,享和2年庄山清兵衛が屋敷内に建造したもので,日本海側最古の石製灯台ともいわれ市文化財に指定されている。その維持費は津内称名寺の田地徳米をあてた(庄山家文書)。また,文久3年小浜藩は同浜に砲台場を築いた。その規模は中央3間・東壁33間・西壁41間で,砲8門を備え,町役人を大筒方とした(敦賀郡誌)。寛文年間頃は敦賀湊の全盛期で,町内には茶問屋29・茶買20があった(指掌録)。寛文4年茶仲6人を置き,片山草軒を茶仲頭とした。彼らは茶代銀100匁につき売手・買手の両方から7匁ずつの仲銀を取り,その3分の2を藩へ上納した。同7年の上納額は銀31貫92匁余で敦賀各町の地子銀合計の2倍になり,駄別銀・米仲銀に次ぐ小物成銀となった(同前)。寛文5年の売茶は3万3,249本(1本12~15貫)で,当町でさばかれなかった通茶は1,752本。貝原益軒の「続諸州めぐり」にも当町の繁栄が記されている。しかし,のち衰微していき,「敦賀志」は「百余年前より,北国にも茶を多く植るを以て茶町漸く衰へ,其前宝永三年此町失火せしより,川西次第に衰微し,近辺の遊里戯場等も皆々河東(かわひがし)へ移れりとぞ」と記している。家数は,寛文3年61うち家持50・貸屋10・寺1(寛文雑記),享保11年58(指掌録),「敦賀県管轄区分表」91。明治7年川崎町の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7093716