角川日本地名大辞典 中部地方 山梨県 33 伊勢【いせ】 笛吹川支流荒川の左岸に位置し,市街地の南端にあたる。町名の由来は江戸中期まで甲府城下の下府中にあった伊勢町の旧名を興したものという(甲府略志)。【伊勢町(近代)】 明治36年~昭和41年の甲府市の町名。もとは甲府市大字稲門村の一部で,旧遠光寺村域。甲府市と市川大門・鰍沢(かじかざわ)方面とを結ぶ道路の1つと,中道(なかみち)往還が町内を通過する交通条件から,明治期には馬車立場があってにぎわった。明治40年県立農事試験場を新築し百石町より移転。大正6年には県立農林学校を新築し竜王村より移転,試験場と中道往還を隔てて相対した。同9年甲府測候所を百石町より移転。同年の世帯数936・人口4,315。同13年伊勢小学校開校。大正期には中巨摩(なかこま)郡方面の製糸業その他産業の発達にともない物資の需給が拡大され,また同14年伊勢町耕地整理組合により着手された町内東部の水田地帯58町6反余の耕地整理の結果住宅地化を進めたことや,交通運輸の便によって商工業関係の戸口の増加が顕著になった。明治32年行路病者救護のため市は町内に救護所を設立していたが,その後要救護者の増加にともない昭和2年拡張して伊勢療養所と改称した。同3年富士身延鉄道の全通と同時に町内田園中に甲府南口停車場(南甲府駅)を開設。同4年耕地整理によりその地域を割いて東1~6条通・住吉通・西1~2条通・北大路・南大路などの新開の町を誕生させた。また当時荒川三ツ水門に沿ってボート貸付業を営んでいた中楯弥が,毎夏水の犠牲者が出るのを憂えて開設したのが同年の中楯プールで,最も完備した施設として注目を浴びた。第2次大戦前,町内には製糸工場が多く,市内71工場のうち17工場があったほか,各種の会社・工場の増加が目立った。町内には県下唯一の養老施設として同7年開設された甲府春風寮があり,同15年日蓮宗遠光寺住職加賀美日聡が創設した山梨立正保育園は,母子保護総合施設として同18年山梨立正光生園と改称,助産・授産・乳児保育などを行った。また第2次大戦末期における妊産婦・乳幼児の疎開受入れ,戦後の戦災孤児の収容などで注目され,その後母子寮・保育・養護の事業を行ってきた。昭和20年の空襲では被害が大きく,戸数1,623のうち全焼1,381,死者25(甲府空襲の記録)。同22年伊勢小学校に併設して南中学校を創立したが,翌年南大路に新築移転。同26年の世帯数1,575・人口7,419。同40年一部が伊勢1丁目・相生1~3丁目・太田町・湯田1丁目となり,残余は同41年に伊勢2~4丁目・南口町・幸町・住吉1~2丁目・青葉町となる。【伊勢(近代)】 昭和40年~現在の甲府市の町名。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7096032