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神部神社
【かんべじんじゃ】


中巨摩(なかこま)郡甲西町下宮地にある神社。旧郷社。祭神は大物主神。三輪明神と称した(国志)。「社記」によると,垂仁天皇の時に大和国大神神社より奉遷したと伝える。小笠原の町並に接する現社地は里宮と称し,北西の野之瀬台地の高地を占める櫛形町上宮地に山宮がある。山宮の地は古来神山と呼ばれ,勧請以来,冬は山宮に祀り,夏は里宮に遷座するのが旧例であった。「延喜式」神名帳山梨郡条の神部神社といわれるが,詳細は未詳。かつては数度神階が昇叙され,若干の神田寄進があり,保元・平治の乱後も逸見・武田・小笠原氏らによって篤く崇敬されたと伝える。室町期になると,神主の今沢重貞が落髪して普含道観と改名し,神山に草庵を営み大神山伝祠院(のちに伝嗣院)と称した。そのため山宮の地は伝嗣院の寺中となり,山宮は同じ上宮地の八幡宮へ移った。また,弘治年間頃に神主の今沢石見が府中八幡の神主に転任したため,以来府中八幡宮神主職の兼帯となった(国志)。永禄3年8月に府中八幡での勤番が免除されたり,天正10年4月の織田信長の下宮地郷に対する禁制が八幡神主宛となっていることは(八幡神社文書/甲州古文書1),そのことと関係があろう。天正11年4月19日に徳川家康から宮地内に2貫400文,田島内に500文,平岡内に500文,鮎沢内に1貫,小笠原内に100文,落合内に250文,北条内に1貫250文,市川新所に1貫500文,里吉内に750文,宮原内に1貫500文(「甲州古文書2」所収の三輪明神社文書は500文とする),極楽寺内に500文,十日市場内に1貫50文,計11貫300文の朱印社領を賜った。また同19年12月には加藤光泰が下宮地村45俵4升の地と神主屋敷として5俵4升の地を寄進した(同前)。慶安2年10月徳川家光から下宮地村に16石2斗余の朱印社領を賜り,社中竹木諸役などが免除され,近世を通じて継続した(社記)。明治6年郷社に列格。例祭は4月12日。かつては4月10~12日に山宮から里宮への神幸があった。一宮浅間神社(東八代(ひがしやつしろ)郡一宮町)の東御幸(大御幸)に対して西御幸と称する。「国志」によれば,4月第1卯の日に行われ,公祭として武器兵仗が給される例であった。現在は10月10日に神輿が山宮(上宮地の八幡神社)へ渡御し,12月に還御。また「国志」は11月卯の日にも山宮への遷幸があったと伝え,神体が季節によって山宮と里宮の間を往復し,山の神・田の神として信仰されていたらしい。3月2日は舟引祭。古代には社前まで湖で,三輪明神が船で渡御したという故事によるもので,小舟を引き,その後,弓を射て占い遷座式斎場で神酒を撒布する神事などが行われる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7096694