100辞書・辞典一括検索

JLogos

70

工町
【たくみまち】


旧国名:甲斐

(近世~近代)江戸期~昭和39年の町名。江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町。甲府築城にともなう新城下町造営により成立。町人地。城下の東方,三ノ濠で囲まれた郭内の東端に位置する。北は山田町,南は下連雀町に接する南北の町並みで,八日町・三日町が交差する。1~3丁目からなり,東側182間余・西側112間余(国志)。町名の由来は,職人の居住地であることにちなむ。主として檜物職人が居住し,役引7町の1町として伝馬・町人足役を免除された。戸口は,寛文10年618人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年80戸,うち1丁目22・2丁目27・3丁目31(上下府中間別/同前),享保5年560人,うち男291・女267・僧1・山伏1(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年549人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年99戸・342人,うち男183・女159(国志),天保7年94戸・434人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)。元禄6年の工町檜物御役引帳(甲州文庫史料3)によると檜物役引57軒と大工役引1軒があり,また檜物役引の57軒には20軒の割屋敷があったので当時の戸数は77軒となる。檜物師の務め方は当初1人1か年に24人とされ,扶持として1日に米7合5勺の支給があり,ほかに木代と塗物の際は漆代も渡された。享保9年幕府領となって以後は職人御用が減少したため,翌10年からは24人のうち19人を無扶持で城内掃除人足または,必要に応じた家職を務めることにしている。「裏見寒話」には「長櫃・箪笥・重箱類の細工人,又塗師屋も多し」と記される。檜物職人は木を取り扱うので山の神大山祇命を祀り毎月17日を縁日とした。これら職人のほか,寛延4年には横町に素麺仲間商人5人・菓子仲間商人6人が見え,また町方職人として大工2・左官2・柿屋根葺6・木挽1がいた(甲州文庫史料3)。枡屋は祖先小倉惣次郎が武田信玄の時代に枡職と細工御用を務めた由緒をもち,江戸期になってからもその通用を認められ甲州枡の製造を代々家職として営んだ。社寺は朱印社領3石余の甲斐奈神社と浄土宗青竜山瑞泉寺・良雲山寿誓院がある。享和3年4月柳町より発した城下の大火で97戸を類焼(町年寄御用日記)。私塾に安政元年田草川草国が開設した己百学舎があり,明治4年廃業するが同年の教師1,生徒男60・女40(甲斐志料集成6)。明治3年の戸数118,うち家持75・借家43(甲府町方家数人数取調書)。明治7年琢美学校を新築,学制頒布以来最初の学校建築で,本県ではときの県令の名を冠して藤村式学校建築とよばれる洋風建築の草分けであった。同17年甲府総町戸長役場,同20年から甲府錦町外三十六ケ町戸長役場の管轄区域に入る。同22年甲府市に所属。同年の戸数182・人口788,大正9年の世帯数278・人口1,157。大正6年市立甲府工芸学校が町内に創立され,木工・漆工の知識・技能の指導を主とした。昭和初期には製糸工場2か所のほか諸会社・商店があり戸口も漸増した。昭和20年の空襲では343世帯のうち316世帯全焼,死者33人の被害をうけた(甲府空襲の記録)。同26年の世帯数213・人口1,040。同39年中央1~5丁目・城東1~5丁目の各一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7097520