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南宮大神宮
【なんぐうだいじんぐう】


韮崎(にらさき)市大草町上条東割にある神社。旧郷社。祭神は建御名方命・金山彦命・大己貴命・事代主命。甘利南宮,南宮明神と称した。創祀年代は未詳だが,「延喜式」神名帳巨麻(こま)郡条の神部神社と伝える(甲斐名勝志・社記)。永久年間新羅三郎義光が社殿を造営したという(国志)。武田信義とその子一条次郎忠頼は信濃国諏訪明神の託宣によりその加護を得,信仰を篤くした(吾妻鏡治承4年9月10日条)。そのため諏訪明神を祀る当社は一条家の崇敬が特に篤く,「国志」には「一条家代々産神ト称シ尊敬他ニ異ナリ」と見える。当時社領300石を有していたが,永正年間の洪水で甘利沢の土砂とともに社領が流失したといわれる(社記)。永禄4年の武田晴信禁制に見える56番の「あまりの禰き」は当社のことと考えられ(八幡神社文書/甲州古文書1),慶長13年の徳川家禁制では53番に「南宮之禰宜」と見える(同前)。天正9年7月武田勝頼は「甘利南宮」に3か条の禁制を下したが,その1条には「為始出陣之衆を,往還之貴賤社中投一宿之事」と見える(南宮明神社文書/甲州古文書2)。街道の分岐点にあって軍事的に重要な役割を担っていたのかもしれない。同11年4月には徳川家康から甘利上条内に4貫850文,同下条内に18貫750文,同河崎分3貫文などの朱印社領が寄進されている(同前)。慶安元年10月徳川家光から東割村内に16石8斗余の朱印社領が安堵され,社中竹木と神主屋敷の諸役なども免除され,近世を通じて継続した(寛文朱印留)。社殿は文永9年,暦応元年,天文11年に造営されたといわれ(国志),特に天文11年には一条家の分かれ武川衆の各家によって勧進が行われた。また近世には氏子によって社殿の修復が行われたが,氏子の水災による困窮などで困難をきわめた(社記)。明治初期郷社に列格。例祭は4月3日。かつては9月9日の流鏑馬など8度の大神事があったという(国志)。




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「角川日本地名大辞典」
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