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西青沼町
【にしあおぬまちょう】


旧国名:甲斐

(近世)江戸期~明治9年の町名。江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町。もとは青沼村の地内であったが,文禄年間新府中建設の際に東・西2か村に分かれ,さらに西青沼村の東部が城下に組み入れられて成立した。城下西南端の郭外に位置する。片羽町の西に続き,北は武家屋敷地の百石町・田町に接する。「和名抄」に見える青沼郷のうちで地名の由来は低湿地によると考えられる。甲州街道に沿う東西の町並みで1~3丁目からなり,南側226間・北側217間(国志)。町内から南へ新道とよぶ河内路への脇往還があり,駿州道・身延道ともいう。町人足役を勤める大助32町の1町で,年間の人足出役基準は32人。戸口は,寛文10年514人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年61戸,うち1丁目18・2丁目16・3丁目27(上下府中間別/甲府略志),享保5年764人,うち男391・女371・僧2(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年720人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年93戸・627人,うち男307・女320(国志),天保7年81戸・654人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)。寺院は浄土宗青沼山天然寺・寂照山極楽寺,臨済宗光明山法輪寺があり,法輪寺は武田有義の開基で,横沢に建てた天台宗の寺院であったが,文禄年間に町内へ移し臨済宗妙心寺派に改めたという。江戸後期に下府中に設けられた火の見5か所の1つが町内にあった。江戸後期の商人として質屋・穀仲買・茶仲買・湯屋のほか古着・青物その他の小商人がおり,職人は大工・左官・鍛冶が多く,また紺屋役引屋敷8軒があった。文化元年佐久間信親が汎愛義塾を創設,孫の寛まで3代にわたり明治6年まで続き,慶応元年には教師男1・女1,生徒は男183・女162。明治3年の戸数174,うち家持73・借家101(甲府町方家数人数取調書)。同9年泉町と改称。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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