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檜峰神社
【ひみねじんじゃ】


東八代(ひがしやつしろ)郡御坂(みさか)町上黒駒にある神社。旧郷社。祭神は大己貴命・少彦名命・高皇産霊尊・神皇産霊尊。神座山権現(国志),薬王大権現(裏見寒話)などと呼ばれた。国道137号の通る集落より神座山川に沿って3kmほどはいった標高1,642.7mの釈迦ケ岳と標高1,414.6mの神座山の中間約1,000mの高所にあり,釈迦ケ岳山頂には山王権現と称した山宮がある。釈迦ケ岳は傾斜が激しいので嵯峨ノ岳と呼ばれたが,音が近いので釈迦ケ岳というようになった(国志)。山中にはヒノキが多いので檜峰の名が生まれたと伝える。神座山は神の降臨する山として信仰されていたのだろう。「社記」によれば,日本武尊東征の際に高皇産霊尊・神皇産霊尊を勧請(山宮),推古天皇21年に聖徳太子が大己貴命・少彦名命を勧請して本宮としたという。天平3年12月甲斐国は黒身に白尾の神馬を朝廷に献上したが(続日本紀),それが祥瑞とされ官幣を授けられたと伝える(国志)。貞観10年9月17日に「无位檜岑神」が従五位下へ昇叙(三代実録),天慶2年には平将門追討のため奉幣があった(社記)。新羅三郎義光以来武田氏代々の崇敬を受けたと伝え(同前),天文9年に武田信虎は社領として井上分を寄進,諸役や口銭なども免除した。永禄11年正月には信玄が井上分5貫文の地を寄進している(神座山権現社文書/甲州古文書2)。天正10年8月鳥居元忠は北条氏忠と黒駒で合戦し,その際戦勝祈願のため太刀1口を奉納したと伝える(国志)。翌11年4月徳川家康が朱印社領18貫695文を寄進,内訳は黒駒のうちに7貫775文,井上のうちに3貫250文,横手道のうちに2貫250文などで,現在の御坂町・八代町にあったと考えられる(神座山権現社文書/甲州古文書2)。慶長8年の四奉行黒印で上黒駒のうちに26石9斗余の社領と神主屋敷分として717坪を有していた。同10年2月徳川家奉行が連署して神座山3里四方の山の草木の伐採を禁止した(同前)。寛永19年7月家光の朱印で上黒駒村内に同額の社領が安堵され,社中の諸役なども免除されて近世を通じて継続(寛文朱印留・社記)。天保9年・嘉永7年に社殿が焼失した(社記)。祭神の少彦名命は,本地垂迹思想の影響により,医薬の祖として薬王権現,薬師などと呼ばれるようになり,参詣者が多かった。また山宮の高皇産霊尊は,東方山上に鎮座していたため里人から誕生仏と称され,4月25日の祭日は灌仏会にあわせて4月8日に行われるようになった(国志)。なお御坂町二之宮所在の鳥栖山定得寺(浄土宗)の本尊釈迦如来は,文禄3年8月に勝誉上人が創建の際,山宮から移したものと伝える(寺記)。明治初期郷社に列格。例祭は4月3日。昭和10年中村幸雄氏が山中で,「ブッポウソウ」と鳴くのはブッポウソウでなく,コノハズクであることを確認したことで知られ,境内5,106坪はコノハズク生息地として県天然記念物になっている。




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「角川日本地名大辞典」
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